桜樹の宵



生ぬるい風が頬を撫でた。
盛りを過ぎた桜の花弁が樹を離れ、月明かりを浴びて白く宙に漂っている。

恋次は、墨染めの袖に纏わり付く花弁を払い落とした。
歩を進めると、草履と砂が擦れ合って、ざりり、と音を立てる。
振り向くと微かに足跡。
踏み躙られた桜の花びらは色を失い、土と混じっていた。

 

静かさを埋めるように、背後の一護が口を開いた。

「知ってるか。桜の樹の下には屍体が埋まっているんだってさ」
「知らねえな」
「そう言うけどな、俺たちは。 時代が違うのかな」
「さあな」

何もかも違いすぎるから応えようもない。
振り向くと一護は、桜の大木を見上げていた。
大きく張り出した枝が暗い空を覆っている。

「屍体とその魂を食うから桜はこんなにきれいな花を咲かせられるんだって、
 だから魔性の花だってそう、聞いた」

擦れた声で一護が続ける。
恋次は桜の樹の太い幹に手を遣り、ごうごつとした根元を見つめた。

そういわれれば、この根も触手か何かに見えないこともない。
地中で緩慢に身をくねらせ、屍を絡めとり溶かして吸い上げる。
屍だったものは幹を登り、枝を走り、花へと美しく変容する。
そして花弁は空に舞って一瞬の生を楽しんだ後、
再び地に降り積もり、消えた屍の墓標となる。

おぞましくも魅惑的な幻想、現世の夢。

ではこれは弔いか、と恋次が手を空に伸ばした。
掌に、そして腕に肩に全身に、
かつて屍だったその花弁は、柔らかく降り積もっていく。
重みなどないはずの薄紅色の花弁が、重く恋次の体を包んでいく。

 

一護が横に立ち、恋次の口元に指を添えた。

「花びら、ついてるぜ?」

微かに笑って、指を恋次の唇に滑らせ、
もう一方の手を首に回して、顔をゆっくりと自分の方へ引き寄せた。
強張っていた恋次の背がぎしりと鳴る。

無骨な指が、恋次の唇を愛でる。
普段は呆れるほど不器用なくせに、桜に酔いでもしたのか遠慮も躊躇いもない。
いつもにない滑らかな動きで恋次の唇を自由自在に翻弄するから、
それでいて決して口の中には入ってこないから、
零れ出そうなため息を堪えて恋次は眼を閉じた。

遠く、潮騒の音が聞こえるような気がする。
もたれかかった背の桜樹が水を吸い上げている音なのか。
或いは溶けた屍が這い登っていく音か。

いや違う。
これは耳と頬を覆う一護の手に阻まれて解放されなかった己の鼓動。
仮初の血流が、海を、生命の源を真似ている。
そして岸壁に打ち寄せる波音のように、合わさった口唇から水の音が響く。

眼を開けば、春の風が桜樹の枝で遊んでいる。
枝が擦れ合って、ざざざと低く唸る。
花びらも狂ったように舞い、虚空へと飛び去っていく。
先程のまでの静けさが嘘のようだ。

躍動する世界。
音に動きに生命に満ち、一瞬たりとも立ち止まることなく変化し続けている。
まるでこの腕の中の子供のように。

 

「桜もいいけど、俺を見ろよ」

そう言って一護が笑い、一旦離した唇を恋次の首筋に寄せ、掌を襟元に滑らせた。
もう一方の手が恋次の髪を解いたから、闇に解ける紅色の髪が風を受けて広がり、二人の顔を覆った。

世界が暗く紅に染まる。

 

生ぬるい風が全身を撫でる。
体の芯から湧き上がる熱を汗が風に奪い取っていくから、体表が軽く粟立った。
一護の頭上で桜樹が枝を揺らし、桜の花弁が降ってくる。
そしてその更に上、天には暗く広がる空、輝く月、月光に消されて届かぬ星の光。
奇麗すぎて、寒気がした。
思わず、震える。

それに気がついた一護が動きを止めて、恋次の眼を覗き込んできた。

「寒いのか?」

まさか、と即答したかったが、酷使されて乾ききった喉と舌は、巧く言葉を紡げない。
だから代わりに覆いかぶさってくる幼い体を己の方に引き寄せ、抱きしめた。

「あったかいか?」

そう言って抱きしめ返してきた一護が笑う。
今日の一護はいつになく無邪気だ。
これも花酔いか?
では何故俺は酔わない?

意識がどうしようもなく醒めていく。
身体はどんどん熱くなっていくというのに。
桜もこんなに奇麗だというのに。
いっそ溺れてしまいたいと思っているのに、何故。

 

答を得る間もなく、一護がゆっくり動き出した。
きつく体を密着させて、少しの隙間さえ許さぬ強さで、恋次を抱きしめてくる。

敷いておいた死覇装はとっくの昔にどこかに消え去っている。
だから背の下にあるのは降り積もった花弁。
一護に揺さぶられる度に背の花弁はつぶれて、色を無くし土くれと化す。
その湿り気が、ぬめりが、儚さが、この身と地面の境を取り払い、溶かして繋げる。
突かれるたびに地と同化し、潜っていくような気がする。

そして地の底で待つのは、桜の樹の根。
俺たちを、いや、俺だけを吸い尽くして次の春に備えようと待ち構えている。
だって死んでいるのは俺だけだから。

この、人の子の身体を満たすのは命。

ならばその手は桜樹の如く、腐乱した俺のこの生を再生しようとしているのか。
この仮初の生を、裂いて咲かせて命へと昇華させるか。

 

恋次、と繰り返し囁く声が、
額から落ちてくる汗が、
髪を梳くその指先が、
伝わってくる体温と混ざる汗が、
むしろ滑稽なぐらい真剣な眼差しが、全部痛い。

 

恋次は逃げるように体を少しづつ上にずらしていった。
一護はもちろん恋次を逃がさない。
むしろ愉しげに恋次を追っていく。
地面に横たわっている恋次には見えないけどほら、
そこはもう桜樹の根で、行き止まり。
もう逃げ場がない。
無意識に恋次は桜の樹の根を掴んだ。
追い詰められたその姿が一護を煽った。
嗜虐心に似た何かが胸の奥で眼を覚ます。

一護は嗤い、
恋次は眼を閉じた。

 

れんじ、と己の名を呼ぶ声で戻ってみれば、一護の胸の中。
半身を起した状態で、仰向けに寄りかかっていた。

「だいじょうぶか?」

不安そうな声が頭上から振ってきた。
そして一護の胸に押し付けられた後頭部には、その心臓の拍動が伝わる。
休むことなく命を刻み続ける音。

「ごめん、無茶しちまった・・・・」

本気で辛そうな声が響く。
だったら何故と思わなくもないが、あれも一護なのだから仕方がない。
見えないまま、頭上に手を伸ばすときつく摑まれ、
まだ瑞々しい柔らかさを残した頬が押し付けられた。
その温かみを楽しんでいたら、不意に指がくわえられた。

その湿り気が、
ぬるりとした粘膜の感触が、
根元まで含まれて溶けて境を失っていく指の感覚が、
まるで屍の肉を絡め取ったはずが逆に屍に取り込まれて行く桜の樹の根のようだ。

そうなのかもしれない。
桜は屍を溶かし取り込んで死を生へと昇華させ、
屍は桜を捕え死を送り込み、自らは転生する。

だったら生も死も変わりはない。
明確な線引きなど出来ない。
あるのは交叉し続ける世界、曖昧に薄ぼんやりとこの手の中にある。

それなら全て解けて混ざって我も彼も今も昔も死も生も一つになってしまえばいい。
境など全部取っ払って、全て溶け合ってしまえばいい。
この月明かりに霞む桜花の嵐のように。

 

生ぬるい風がまた頬を撫で、足元の桜の花びらを舞い上げた。
強い風に景色が歪んで霞み、二人は目を閉じた。

 

春は宵夢。
桜花と共に咲き誇る。





耳朶 >>

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