触れ合った耳朶。
そこで生まれた痺れは耳の縁を辿り、
首筋を舐め、肩に背骨に網の目のように広がり、
体を膜となって覆い、やがて体の芯にまで滲み込んで姿を消す。
そして代わりに溢れ出た甘さは体表から蜜となって滴り落ち、やがて指先まで絡め取ってしまう。
そんな官能に、抗えるわけもなく。
耳朶
「なんだ、ソレ」
「あー、残務処理」
突然姿を現した恋次が紙の束をヒラヒラさせたから、一護は掴み取ろうと手を伸ばした。
何だか子猫みたいだなあと思いつつ、恋次はひらりとかわした。
ぐう、と不満を表す音が背後に聞こえる。
こなし切れなかった仕事を持ち込むのは不本意だが、大した量ではない。
この機会を逃せば今日のうちに来ることは出来なかったのだから、仕様がない。
でも、と恋次は苦笑する。
本当は仕事をする自分を見せ付けたかっただけなのかも。
我彼の差を見せ付けたかったのかも。
今更認める自分がおかしかった。
一方で、いきなり背を向けた恋次に一護は誘いをかけた。
「なあ、外行かねえ? 闇夜だけど気持ちいいぜ?」
「これ終わってからでいいか?」
一護の無言の肯定に、恋次は作業を始めた。
ベッドに寄りかかって床の上。何故か落ち着くいつも姿勢、いつもの場所。
蛍光灯が照らしつけるから、和紙のくせに不自然に真白く光る。
書類には一応、目は通してあるから、内容を再確認するだけの単純作業。
とはいえ間違いは許されないから、勢い真剣になる。
集中が増し、音が、光が、全ての存在が希薄になる。
在るのは己の世界。
時間さえ消える。
わざわざ訊ねて来たくせに、さっさと自分の世界に入ってしまった恋次を見て、一護はため息をついた。
まあ、どうせいつも心非ずな感じだし。
気を取り直そうとしても、久々に姿を見せた恋人なのだから気は逸る。
でもここで焦ってもまた仕損じるだけ。
散々、失敗を重ねてきただけにその辺はわかるようになってきた。
阿呆臭えなあ、ほんと。
心の中で呟いて、一護はベッドに寝そべった。
これは、恋次が居るときの一護の定位置。
今度のテスト範囲は結構広いし、と教科書をパラパラとめくってはみたけど、
すぐ横にいる赤死神の派手な色彩と仕事の進み具合が気になって集中できない。
被扶養者の学生である身も相まって、我彼の間の差を感じ、少し卑屈な気分になった。
つまんねえなあ、居なきゃ居ないで何とかなるのに。
どうにかならねーのかよ、このオアズケ状態。
さりげなく近くに転がっていって気配をうかがっても、
恋次は死神業務に没頭中。拒否感が漂ってる。
なんだよその冷たい顔。
そんなのほんとのテメーじゃねえだろ。
テメーの本性はもっと違うもんだろ。
闘ったときの、あの高揚した恋次の表情を不意に思い出した。
どくり、と心臓が蠢く。
瞬きもせず見据えてくる眼、歪む口元、押さえても尚、溢れ出てくる攻撃的な霊圧。
狂気染みたあの表情を思い出すだけで、発火しそうな熱が背を走りぬける。
欲しいのはあの眼。
捻じ伏せたいのはそのプライド。
執着に似たその暗い欲望を鷲掴みにして引きずり出し、目の前に曝してやりたい。
誇り高くも卑屈なその自我を完全に叩き潰したい。
そして屈辱さえ感じることなくなったお前の死んだ眼を、俺の手で生き返らせる。
俺がお前の世界の全てになる。
なんという官能、体の芯まで痺れるようだ。
逆らえるはずもない。
一護は震えた。
否定することさえできないこの欲は何だ。
嫌悪で、吐き気さえするというのに。
けれど目の前には、誘うように耳朶。
薄い皮膚は血の色を透かし、浅く茜色に染まっている。
墨と紅の強烈な色に囲まれ、柔らかく息づくその存在は哀れなほど希薄。
自分の意思では動かすことさえできないくせに、感覚だけは鋭い。
触れれば震えるような快感を脳髄に送り込み、恋次の全てを支配する。
なんて愚かで愛しい。
伸ばした指先が耳朶に触れた。
指の腹で軽く押すと、こり、と薄い肉の下の軟骨が反抗して、恋次の肩が微かに震えた気がした。
不規則な曲線に沿って指を滑らせると、頤へと合流する。
頚へ、更に下方へと降りていきたい衝動に逆らって、今度は二本の指で挟むようにして耳朶を遡る。
こめかみに辿り着いたところで引き返し、指の腹で縁をゆっくりと降りていく。
ふ、と恋次がため息をついて大きく頭を振り、耳で遊び続ける一護を見遣った。
細く、伺うように睨み付けてくるその眼には紅い虹彩。
暗く輝き、光が揺らめく。
その深紅が欲しい。
抉り出し、握り潰し、その血でこの手を染め上げたい。
きっと、ものすごく、奇麗だ。
そして甘い。
抑えきれない。
危うい衝動が官能となって体を満たす、眼が痛む。
恋次は黙って紙の束を床に置いた。
真正面から向き合って、一護の眼を見据える。
あの闘いの時のように。
「一護?」
血の赤で彩られた幻想が、目の前の恋次と重なり、霞む。
紅い虹彩に絡めとられるという幻覚、危険信号。
鼓動は速まり、神経は鋭く尖ってずきずきと痛む。
視界が歪み、世界がブレる。
腹の底から湧き上がってくるのは純然たる殺意。
快楽と酷似した絶対の衝動。
抗え切れない。
意思を奪い取られるその瞬間、恋次が微笑んだ気がした。
「一護」
凪を連想させるような、静かな声。
意味も感情も込められず、透明といえるほどの純粋な音の羅列。
「一護」
けれど、それは俺の名だ。
俺という意味を持つ。
だが俺という存在は曖昧すぎる、俺は誰だ。
「一護」
俺の名を呼び、掠れていくのは恋次の声。
覗き込んでくるのは紅い色。
「一護、俺は此処だ、戻って来い」
何故? お前は誰だ、どこに戻れと?
「・・・一護」
声も出なくなってきたか?
墨が刻まれた喉に食い込む指先が、白く血の気を失う。
息がかかるほどの距離で、この手の中で、紅い男が死んでいく。
その官能。
「い・・・ち・・」
ガクリ、と頭が落ちた。紅い髪が揺れて顔にかかった。
これが終焉。
後はその眼を抉り出して潰すだけ。
俺を見据えてくる、その生意気で無遠慮な眼は消え去る。
もう苛立つことはない。
これが安寧。
力が抜け落ちた体を抱きとめた刹那、耳と耳が触れた。
さっきまでこの指の下で震えてた耳朶。
その記憶が、侵食の波を柔らかく押し返す。
何度その耳に触れただろう。
指で、唇で、舌で、そして耳で。
触れるたびに甘く震えて、俺の方が蕩けそうになった。
何度その耳に囁いただろう。
その名前を、俺の気持ちを、そして願いを。
決して返事はしてくれなかったけど、それでもちゃんと伝わってきた。
今度はちゃんと言葉で聞かせろよ。
もう一回、俺の名前を呼べよ。
「・・・・恋次?」
恐る恐る伸ばした指は、首筋に拍動を捕えた。
「恋次!」
反応はない。意識がない。
でも、生きてる。
「恋次」
抱きしめると、温かさが伝わってくる。
頬を摺り寄せると、柔らかく弾き返してくる。
そして耳朶が、柔らかく存在を主張する。
そっと耳を甘噛みしたら、恋次が微かに震えた。
そして謝ることしか出来ない俺に、「痛えよこのバカ」と呟いた後、俺の名前を呼んで、力無い手で俺を引き寄せた。
抱きしめ合って触れた耳からは、例えようも無い安寧と官能が流れ込み、俺を翻弄してするりと消えた。
Crossing >>
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