甘露



くつり、と何かが哂った気がしたので立ち止まって足元を見た。
もちろんただのアスファルト。
正面から照らしてくる夕焼けのせいで、不思議な茜色に染まっている。

「オイ、何してんだ、先行くぞ」

数メートル先に行ってしまった恋次が苛々した調子で振り返った。
今日の夕陽はいつになく強い光で、
振り向いた恋次の顔が、逆光の陰になって全然見えない。

「ワリィ、今行く」

そう応えると、ったくよぉ、と毒づきながら恋次がまた前へ歩を進める。
だからその背中に走って追いつこうとした。
途端、足がもつれて転びそうになった。
靴底が地面に縫い取られたように、微動だにしない。
足元から前方に黒く長く伸びる影。

ありえない。
だって太陽は真正面だ。

くつり、とまた何かが愉快そうに哂う。

この気配。
コレはアイツだ。
俺の中に巣食うアイツ。

よォ、相棒!

底抜けに明るい調子でアイツが話しかけてきた。
どこだ?
地面の底か?
それとも俺の頭の中か?

ココだよォ、相棒!

真正面に、足元から暗く長く、影が哂っていた。

俺のこと、わかんねーのか、忘れたか、鈍いなあ、テメーはよォ!

異常なほど赤く燃え上がる夕陽に向かって、闇よりも濃い影が伸びていく。
そしてその胸にはくっきりと、丸い穴。

・・・なァにビビってんだよォ、テメーの穴だろォ?

そういってソイツはまた、くつりと哂った。
闇に縁取られた穴は茜色より濃い赤で、光り輝いて、まるでそれ自体が太陽のようだ。

テメーで開けて隠してビビってちゃあ世話ァねえなぁ!

「・・・・俺んじゃねえ、テメーのだろ」

一瞬の空白の後、ソイツは笑い出す。
影が揺れ、穴も歪み震える。
耳を劈く、金属同士が擦れ合う音に似た響き。
その道化染みた動きが、見下ろしてくる笑い声が、全てが気に障る、神経が逆立つ。

なんだ、その区別はヨォ!
俺はテメーでテメーは俺で、じゃあ俺の穴はテメーの穴だ。
小せえことでグチャグチャ抜かしてんじゃねーよ!!


「・・・・・失せろ、ウゼェ」
でも足は麻痺したように動かない。

粋がってんじゃねーよ、相棒。
ウゼーのはテメーだ。さっさと自分の穴、埋めてみろ。


「なんだと?」

スカスカして気持ちワリィんだよ。
テメーの始末はテメーでつけろよ。


「っせぇ! 俺の始末なわけねーだろっ!」

母親殺して、テメーで開けた穴だろ?
治そうともせずに、自分で抉り続けて大きくして、
だからホラ、こんなに立派な風穴になった、そうだろ?


くつくつと含み笑いが響く。

殺しちまえよ、全部?
それがテメーの望みだろ?
誰だっていいんだろ、その穴をふさいでくれそうなヤツなら。
惨めで哀れで救ってやれそうなヤツだったら誰でもいいんだろ?
助けてやれば感謝される、満足できる、雨も止むんだろ?


甲高い声で愉快そうに続ける。

でもテメーは本当は穴アキの方がいいんだもんなァ?
だってほら、また雨は降り出す。
だから助かっちまったヤツらは用済みだ、そして次のヤツを探すんだテメーは。
殉教者ってヤツなのかもなァ?
ソイツらは全部、テメーの欲のため使われただけなんだろ?
エサにしてんだろ?


何の話だ。
テメーは一体、何の話をしている?

ほら、そこにも一匹いるじゃねーか。
テメーに懐いてる紅い死神。


目を上げると、ずいぶん先に行ってしまっていた恋次が戻ってくるところだった。
「何、たらたらしてんだテメーは!」
いつものとおりぶっきらぼうな言い方だけど、相変わらずの逆光で顔は見えないけど、
でも眉をしかめた、ちょっと心配した表情がその顔に浮かんでるに違いない。

来るな! 今、こっちにきちゃだめだ!

叫びたいけど声もでない。

さあ、手始めにアイツを食っちまおうぜ、きっと美味い。
テメーが手間隙かけて手に入れた獲物だ。
よく熟れているなァ、食べごろだぜ?
生きたまま肉を引き裂いてみろよ。
あの墨、跡形もなくなるぐらい切り刻んでしまえよ。
血ィ噴出して、もっと赤くキレイになるぜ?
噛み締めると甘く蕩けて、きっと体中痺れるぐらいだぜ?


やめろ!
やめねーさァ!
テメーが何より望んでることだろう?!


違う!
違わねーよ!


恋次がどんどん近づいてくる。
落ちる夕陽、長くなる影。
恋次にもう少しで届いてしまう。

来るな、逃げろ!
来い、食ってやる!

くそっ! 黙れ!!
逃げろ恋次! あと数歩で届いてしまう。
ほら後、三歩、二歩、・・・。

 

届け、もう少しだ!
届け、あと少しだ!
 


待てよ、これは誰の声だ、俺か、それともアイツか?
恋次を取り込んで、溶かしてしまって、俺だけのものにしてしまいたいと渇望する、これは誰の思考だ?
俺か、俺なのか?

心臓が早鐘を打ち、血が四肢を巡り、全身が緊張する。
影が足先から侵食を始め、末端から温度とコントロールを失っていく。
眼が灼けて痛む。
何かが体の中心から崩れ落ち始め、空洞が姿を現す。
痛みは痺れに変わり冷え固まっていく。
嘲笑うように。

抑えきれない、乗っ取られる。
逃げろ、恋次。
今すぐ逃げろ、こっちに来るな、俺に食われるぞ、逃げろ逃げろ逃げろ今すぐに!

 

バシッと空気がはじけるような音がした。

突然の強い光に目が眩み、急に解放された足にバランスを取られて地面に倒れ込んだ。
一瞬、意識が遠くなる。

 

「・・・どうした、一護?」
目を上げると、不審気に眉をひそめた恋次の顔。
アイツの気配はない、体も動く。

「・・・アイツは?」
「アイツ?」
「そうだよ、アイツだよっ、影はどこ行ったっ?」
「・・・どの影のことだ?」

地面を見ると、何本もの街灯に照らされて、俺の周りには放射状に幾つもの影が散らばっている。
太陽は消えうせ、残るのは夕焼けの名残を残した生ぬるい薄闇。
街灯に照らされて地面に這い蹲るのは、薄ぼんやりしたただの影。
穴なんか開いていない。

額を拭うと、ぬるりとした脂汗。
恋次はそんな俺の腕を取って立たせようとした。

「疲れてんじゃねーのか。歩けるか」
「・・・離せ、一人で歩く」

手を振り払うと、鼻白んだ様子で恋次が俺を放した。
足がふらつき、眼が灼ける。

「じゃあ行くぜ?」

俺が立ち上がるのを待って、恋次がゆっくりと先を歩き出した。
紗がかかった薄闇の中、その背中がどこか遠くに見えたから眼を閉じる。

俺は知っている。
アレはアイツだしアイツは俺だし、食いたくて腹へってたまんねえ。
家族も仲間も大事なヤツラを全部食い散らかして、俺はどこに行くんだろう。

破壊的な闇が湧き出してきてるというのに、
俺は為す術もなく、ただ立ち尽くしていた。




影 >>

<<back