ずっとずっと奥深く分け入ったところ。
誰も知らないそこにひっそりと、小さな泉があった。
その水は深く透明で、
水面は空の深い青と流れる雲の白を映していた。

もし、誰にも見つからなければ、あの水は永遠に透明のままだったかもしれない。
それが平穏だったのかもしれない。
けれど、人知れず空と雲を映し、ただ在るだけだったならば、
その泉は無かったことにはならないんだろうか。



Deep Forest  −水底−




それは元々、調和の取れた穏やかな世界だった。
澄み渡る青い空、穏やかな雲の流れ。
それは久遠に続くのだと思わせた。


ある日、突然の驟雨。
よくあることだった。
だが雨は止まなかった。
嘗て無かったことだ。
雨はいつまでもいつまでも降り続けた。
そしてその雨を集めて逸る水流。
勢いを増し、地を抉り、泉に流れ込む。
雨は止まず、泉は深さを増し、その色も深く深く淀んだ。
嘗ての青空も灰色の雲で覆われ、暗く濁っていた。

だが時が過ぎる。
そして雨も止んだ。
厚く空を覆っていた雲も去り、泉の水も澄んだ。
だが空は、本来の明るい青色からは程遠い暗い蒼。
泉もその深さを増したままだった。




ある日また、ぽつんと水が一滴、落ちてきた。
水面に触れた瞬間、透明な音を立てたそれは、そのまま泉の水に溶けて沈んだ。
だがその水滴は消える直前に、幾つもの真円を水面に描き残した。

その真下。
深い深い水の中で、彼の意識が静かに呼び起こされた。




「・・・だぁれ?」

水の奥へと問いかけてくる掠れた小さな声が彼の耳に届いた。
幼い子供特有の、舌っ足らずの甘い声。
でも何故だろう。
どこか寂しげな響き。

彼が意識を向けると、水面の向こう、人の仔が覗き込んでいるのが見えた。
とても眩しい。
陽光そのものの明るい色の髪が照らしつけてくる。
けれど、じっと見つめる大きな両眼は不安定に揺れている。
その両目を覆う水膜の色に、この仔こそがあの降り続いた雨の主だと彼は悟った。

ならばこの仔が、この世界そのもの。
彼が属する世界の主。

まじまじと仔を見つめている間に、
もう一滴、人の仔の目から水滴が落ち、水面に大きな輪ができた。
背後の蒼い空と共に、仔の姿が同心円に揺れて歪んだ。
暗いだけの蒼い空と灰色の雲。
慣れてしまったその暗鬱な世界が、仔の纏う暖かい色と混ざって混乱した。
それが妙におかしくて、彼は、笑んだ。
初めてのことだった。

だがそれも長くは続かず、歪みは消えて世界は在るべき姿を取り戻した。
けれど悪くは無い。
彼は笑みを消さなかった。
水面の向こうには、大きな眼を見開いたままの仔が、一心に彼を覗き込んでいたからだ。

彼は終に見出されたのだと知った。





水面の向こうで、人の仔は問う。

「きみは、だれ?」

知らない。
今、知らないことを知ったばかり。

「なんでそんなところにいるの?」

わからない。
俺は今、生まれたばかり。

「水の中で苦しくないの? 息、できる?」

心配してるのか?
幼い顔に不似合いなほど寄せられた眉。
今にも泣きそうな口元。
ダメだ。
そんな顔をしてはいけない。

そう感じた理由も知らず彼は、今、形を得たばかりの指先を伸ばす。
まるで水が凝集したようなその指。
水面に触れた指が創った同心円を潜り抜け、その先へと伸ばすと、 乾いた空気で皮膚が焼け、チリリと痛んだ。
だが、痛みなどほんの些細な代償。
その手にようやく触れることができたのだ。

小さな手だった。
掴んで引き寄せようとした。
その行為が何を意味するかなど考えず、ただ反射的に、求めるがままに。

だが、仔は手を引いた。
指が離れた。
大きな瞳が不安げに揺れている。

「・・・ごめん。オレ、行かなきゃ」




そして仔は去った。
彼はまだ声を得ていなかったから、呼び止めることも無かった。
だが知っていた。
あの眼に浮かんでいたのは拒絶。
彼を求めて見出したのはその仔自身だった筈だったのに、彼が応えた手を取ることなく拒んで去った。

あの 仔は知っていたのだろうか。
彼が、自分を同じ場所へと取り込もうとしていたことを。
その仄暗い水の闇に。


彼は己の手を見た。
既に輪郭が滲んできている。
もう溶けかかっている。
見てくれる人がいないからだ。
求めてくれる存在が無いからだ。
だが指先にまだ、何かが残っている。
初めて知る感覚。
これは何だろう。



・・・ あの仔が欲しい。

彼の胸の奥底に、何かが生まれた。
それはとても強い気持ち。
ざわりと騒いでいる。
痛みも感じる。
だが、胸を抑えてみると、ぐにゃりと輪郭が溶けるのを感じた。
なんて脆い。

・・・姿が欲しい。

彼は願った。
今を忘れぬように、
自分が自分のままであれるように、形が欲しい。

彼は強く欲した。
あの仔と同じ姿がいい。
忘れぬように。
いつでも会えるように。




瞼の裏にしっかりと刻み込まれたその姿を己に映し込んだ彼は、 安心してゆっくりと水底に沈んだ。
そして終の寝床の水底に、得たばかりの身体を横たえる。
水に溶け去っても、消えることはない。
あの 匣の中に戻りもしない。
なぜならば、彼はもう見出されたから。
だから永遠に在り続けるのだ。




そして彼は、夢を見る。
仔と再び出会う夢。

その時、 あの仔は覚えているだろうか?
一抹の不安が過ぎる。

だが 今はただ待とう。
巡る時の向こう、またあの仔が探し当てるその時まで。
次に出会うときまで、この姿のままで。
あの仔がわかるように。



眼を閉じる直前、水底から見上げた空はいつの間にか、
遠い昔の あの澄んで鮮やかな青を取り戻していた。



Deep Forest  −白い迷宮− (一護側) >>
<<back