Deep Forest  −白の迷宮−



あれは、おふくろを失くして間もなくのことだったと思う。
幾夜も続けて、奇妙な迷宮に入り込んだ夢を見ていた。



その頃オレは、途方に暮れてもいた。
涙は当に枯れていて、もう一滴も出やしないのはわかってた。
だからといって何をどうしていいかも、行き先もわからなかった。

世界が崩れ落ちてくるように感じていた。
子供だという無力。
無力だという無様。
誰も何もオレに求めない。
オレのせいだというのに、非難さえされず、
腫れ物のように扱われ、あまつさえ同情さえされる。
惨めさ、疎外感、無力感。
ほんのガキだったオレは、何にどう対抗していいのか分からずにいた。




夢の中で辿り着いたそこは、不思議な世界だった。
空は暗い蒼。
薄い灰色の雲が流れている。
物音ひとつしない。
何の気配もしない。
そして一面に整然と敷き詰められた真白い匣。

そう、あれは異界だった。
匣でできた迷路にオレは迷い込んでしまっていた。
だがそこは奇妙に心地よく、次第にオレはそこへ馴れていった。
大事なものを自分のせいで失くした今、元の現実に戻る意味などないようにも思えた。




一体、何日彷徨った後だったか。
匣の迷宮の奥で泉を見つけた。
天を覆うのは深い蒼。
囲い込んでくる匣は白。
限りなく無彩色に近い、無機質で暗い世界。
そんな世界でその泉は、不思議と柔らかいものに見えた。

覗き込んでみると、深かった。
泉を縁取るのは、水底までずっと無数の匣だった。
とてもとても深いのに、ずっと底まで見通せる。
まるで合わせ鏡の奥を覗きこんだような錯覚に、ぐらりと眩暈がした。
やっぱりここは匣の世界なんだと思った。
そしてふと、この匣の中には何が入っているのだろうと、疑問に思った。

疑問を抱えだすとキリが無い。
大体、これは本当に水なんだろうか。
こんな不思議な色、見たことがない。

オレは手を伸ばした。
だが水面に触れる寸前で、指が止まった。
だってその鏡のような水面に映ってたのはオレの顔。
その顔は、子供とも思えないほど疲れ果てていた。
泣きっ面の惨めなツラ。
オレはそんなの、見たくなかった。
止めたはずの涙が不意に湧き出た。

なんでこんなところにいるんだろう。
探しても、誰もいない。
何もない。何もできない。
ひとりじゃない。けどひとりぼっちだ。
どこへ行ったらいいんだろう。
何をしたらいいんだろう。
何ができるんだろう。

水面に映る自分の顔が酷く歪んで見えたと思ったら、
瞬きした拍子にぽつりと何かが落ちた。
涙だった。
オレは少しびっくりした。
だってまだそんなものが残っているとは知らなかったから。

涙の一滴は、鏡のようだった水面に円を描いた。
するとその奥に何かの影が見えた。
水面に自分が映っただけだと知っていながら、
オレは、誰かと訊いたと思う。
だって一人だったから。
誰かに側に居てほしかったから。
すると、水底からするりと何か、影のようなものが姿を現した。
今まで一体、どこに居たんだろう?
透明な水は、泉の奥底まで見せていたのに。
そこに見えたのは幾層にも重なった匣の深遠だけだったのに。
もしかして、どれか匣の中?

その影は水の中にゆらゆらと漂っているように見えた。
姿も色もはっきりとしなかったけど、不思議と怖くはなかった。
頼りなげな姿が寂しそうに見えたからかもしれない。
水の檻に閉じ込められて、ひとりぼっちなのだろうと思った。
それが、消えてしまった魂の行く末と重なる。
おふくろはもしかして今も、あの河の奥底で水の流れを見送ってるんじゃないだろうか。
オレを探して悲しんでるんじゃないだろうか。



オレの戸惑いを見透かしたように、影が手を伸ばしてきた。
オレをあっち側に連れて行ってくれるんだろうか。
そしたらオレは、おふくろに会えるんだろうか。

オレも手を伸ばし返した。
けど、指が触れた途端、俺はまた見てしまった。
それは水面に映った自分の顔。
暗い眼。

オレは手を引き戻した。
これは葬式の後、水溜りに映ってたのと同じだ。
あれから何にも変わっちゃいない。
たくさん時間が経ったと言うのに。
こんなんじゃいけない。
こんなんじゃ母ちゃん、悲しむ。

「・・・・ごめん」

オレは、一言謝って、その場を逃げた。
流れる雲の下、白い匣の森を、走って走って走り抜けた。




そして気がついたら、自分の部屋の床の上だった。
転寝したらしいと額に流れる汗を拭ったら、窓の外、青い空が広がっていた。
入道雲が純白に湧き上がり、蝉の声が世界を満たしていた。
一階からオヤジと妹たちの声がして、あれはやはり唯の夢だったと思い知らされた。

だけど手にはあの冷たく柔らかい指の感触がしっかりと残っていた。
目元にはまだ涙も残っていた。
けれどこれで終わりだ。
もう、自分を哀れんで泣くようなことは、しない。



それは、夢の中の白い匣の森から抜け出すことを決めた真夏の午後。
オレの周囲でも、季節は巡り始めていた。


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