謳う声が天へと駆け抜ける。
祈る声が彼方へと砂上を奔る。
出会ってさえいればいずれ調和を奏でたであろうその二声は、
互いを知らず、また交叉することもない。
その不条理を罰と呼んでいいのならば、
少しは救われたのかもしれない。
落 魂 ─ らくたく ─
ノイトラは砂漠を一人、歩いていた。
一歩進めるたびにザリ、ザリリと耳慣れた音がする。
───
もうこの音にも飽きたな。
ノイトラは天を仰いだが、冷たく輝く月は天にぴたりと張り付いているだけで、彼を見下ろすことさえしない。
そもそも色も熱も持たない月光が創りだせるのは、砂上を滑る影ぐらいのもの。
だが歪み混じりに映し取られた輪郭に、何の意味などあるものか。
ノイトラは、この月にも飽きたと漆黒の虚空に視線を逃した。
「子供ね」
その声が、浅い記憶の中で木霊し続けている。
何度目に挑んで負けた後だったか。
目さえ合わせずに吐き捨てたあの女の横顔が忘れられない。
敵意さえないあれは嘲笑か、侮蔑か。
それとも哀れみか。
全く忌々しい、とノイトラは吐き捨てる。
否定しようともした。
塗りつぶそうともした。
だがその横顔も声も幾層にも重なって歪み、まるで汚泥のように記憶にこびり付いている。
呪詛や怨詛だったらまだよかったのだ。
そんなもの、喰らってきた幾多もの虚から砂の数ほど受けている。
覚えていようとしていても、やがて風に巻かれて消えた。
だがノイトラを子供だと断定したその声は、まるで石のように今も重く冷たく圧し掛かっている。
「…子供だの大人だの、意味がねえ」
どっちにしろ、俺たちゃただの屍骸だ。そうだろ?
ノイトラは虚空に浮かぶ光の欠片に視線を戻し、同意を求めた。
*
子供ね。
そう口にしてはみたものの、自分の言葉が真実から程遠かったことをネリエルは知っていた。
本当の子供は、あんな風に死ぬことを夢にしたりはしない。
だって子供の目に映るのは、そこにある現実。
死って何?
生きるって何?
どうしてここにいるの?
どうして自分は自分なの?
そんな問いは全て捨て、死に際を夢に描くあの男の魂は多分、とても年老いている。
滅びを夢見るほど疲れ果てている。
「…どうしたらいいのかしらね」
ネリエルは砂丘の中腹に腰を下ろした。
この世界の光の源たる月は、静かに暗い空に浮かんでいるだけ。
邪魔はしないけど助けてくれることもない。
「はぁ…、こまったなあ」
わざとふざけた調子で呟くと、
ネリエルの身を案じて側に控えていた従属官のペッシェとドンドチャッカが早速、姿を現した。
「どうなされましたか、ネリエル様。何かお困りのご様子。
…ですがご安心ください! 不肖、このペッシェ! ネリエル様のために一肌抜いで…」
「どうしたでヤンスか、ネリエルさま〜」
「コラ! ドンドチャッカ! 今は私がネリエル様にお話申し上げているんだ! 邪魔をするんじゃない!」
「邪魔なんかしてねえでヤンス〜!」
「してる! 大体、その馬鹿でかい体のサイズと顔と声をどうにかしろ!」
「それじゃ全部でヤンスよ〜。無理言うなでヤンス〜」
「お、お前…、それしかないのか? それでいいのか?
体と顔と声の三点セットで全部なら、お前のアイデンティティはどうなるんだ?」
「ひどいでヤンス〜。そんなツッコミどころがわからねえギャグは止めて欲しいでヤンスよ〜」
「ギャグじゃない! フォローだ、馬鹿者!」
ネリエルはこめかみを押さえた。
「もうやめなさい!、ドンドチャッカもペーシェも! お互い様でしょ!」
「酷い、ネリエル様! ドンドチャッカとこの私がお互い様だなんてあんまりです!
ショックのあまり、当分立ち直れそうにありません!」
ガクリとペッシェは首を垂れた。すると負けじとばかりにドンドチャッカも拳を振り回す。
「全くでヤンス〜!」
「あ、ドンドチャッカ! 真似をするな!」
「もう、二人ともいい加減にして!」
放っておけば丸一日でも延々と漫才を続ける二人を宥めながら、
ネリエルは少しだけ気持ちが落ち着いた自分を感じた。
日常はいい。闖入してきた異物の存在も未来への不安も忘れさせてくれる。
「お腹すいたなあ。さ、ご飯、食べに帰ろっか!」
ネリエルが砂を払って立ちあがると、従属官の二人は心得たとばかりに虚夜宮へと足を向けた。
二人の足元から砂を踏む音が響く。
いつもと同じ音。
いつもと同じ景色。
闇空に溶け込む二人の姿を目にしたネリエルは微笑んだ。
私がこんな風に安穏と暮らしてしてられるのは、この子達のおかげ。
一緒にいるだけでこんなに優しい気持ちになれる。
ネリエルは空を見上げた。
でも今、ノイトラは一人だ。
まるであの月のように。
少し俯きがちで歩くその姿を思い浮かべると、罪悪感に似た何かを感じる。
「…ご飯も一人で食べてるのかな」
つい零してしまったのを、ペッシェが耳ざとく聞きつけて振り向いた。
口元だけの笑顔で返すと、
誤魔化された振りをするのが巧みなペッシェはまたドンドチャッカと共に歩き出す。
その光景はいつもと同じだというのに、
僅かな胸の痛みが後を引いて、ネリエルはため息をつきたくなった。
そして自分に言い聞かせる。
どちらにしろ、あなたの関知するところじゃないのよ、ネリエル。
だってノイトラはあなたを憎んでる。
ネリエルは背後を振り返った。
でも何でなんだろう。
雌だから気に食わないとノイトラは言っているけど、
女とか男とか形だけの問題でそこまでこだわれるものかしら?
所詮、虚たることから抜けられない私たちには性も外観も意味を成さないってこと、
ノイトラにもわかってるでしょうに。
それに私は一番強いわけじゃない。
なんで私にだけあんなにこだわって反抗してくるんだろう。
飽きないのかしら?
…変な子。
ネリエルは結局、ため息をひとつついて、従属官たちの後を追った。
*
「じゃあ頼んだよ、ネリエル、そしてノイトラ」
「…はい、藍染様」
「ってこの俺が? ネリエルと? んだそりゃ! 冗談じゃねえッ!」
反抗の意もあらわに叫んだノイトラに対して、壇上の藍染は落ち着いたものだった。
石造りの椅子に深く腰かけたまま、静かに見下ろしている。
「不満なのかい?」
「なんで俺がこんなヤツと!!」
「静かになさい、ノイトラ。藍染様の御前よ?」
「煩え、ネリエルッ! 俺に指図するんじゃねえッ!」
「座りなさい、ノイトラ。勝手に立つもんじゃないわ」
「煩ェッつってんだろッ!」
藍染は至極興味深そうに、眼下の二人を見つめた。
ノイトラがネリエルを嫌っているのは知っていた。
だがこれほどとは。
頭を垂れて膝をついたまま平然とノイトラを諭すネリエルに対して、
立ち上がって藍染に牙を剥いてくるノイトラは明らかに我を失っている。
面白いと、藍染は僅かに口元を綻ばせた。
「おや、ノイトラ。君には荷が重かったかな」
「そういうんじゃねえッ!!」
「…無理だと素直に申し上げたら?」
「煩ェッ、ネリエルッ! 畜生、…行きゃぁいいんだろ、行きゃあッ」
「当たり前よ。選択の余地があると思うの?」
「…!」
目前で、まるで出来芝居のように繰り広げられる
二人のやり取りに、
ネリエル、君もかいと問い正したくなるのを藍染は堪えた。
普段の彼女なら、突出した観察力と冷静さでそつなく物事を運ぶというのに、
馬鹿馬鹿しいほど子供染みたノイトラの反抗に対してはうまく自分をコントロールできないでいるらしい。
真っ当に相手をしすぎている。
これは見物だと藍染は内心、呟いた。
冷静を装ったネリエルの魂の奥底に押し込められている何かが姿を現しかけている。
ほころびが見えてきている。
ならば、気まぐれで思いついた今度の遠征が何か実をつけて戻ってくるかもしれない。
吉と出るか、凶と出るか。
どちらにしろ遊びにすぎないのだから、退屈なこの生に少しの刺激を与えてくれればそれでいい。
「じゃあネリエル。ノイトラのことはよろしく頼んだよ」
「承知しました、藍染様」
「…ッ!」
声もないノイトラはともかく、
言外の意を含ませた藍染に対してネリエルが僅かにでも表情を曇らせたのを認め、藍染は満足げに微笑した。
*
ヴァストローデを共に探し出せ。
それが藍染の命令だった。
ネリエルとノイトラは一応、連れ立って虚夜宮を後にした。
だがそれも、天蓋の内側を覆う仮の青空、つまり藍染の掌中を離れるまでのことだった。
闇に足を踏み入れた途端、ノイトラは別方向へと向きを変えたノイトラを、ネリエルは冷たく見遣った。
「つまりあなたは私とは行けないと。そういうことね?」
「ったりめえだッ! 足手まといはいらねえッ!」
足手まといねえとネリエルは肩をすくめた。
ノイトラは決して弱くはない。
だが破面化したとはいえ、完成もしていない十刃の、しかも第8位。
いまだ潜伏を続けるヴァストローデに対してノイトラは非力に過ぎず、
一人で相対したら犬死にも免れないだろう。
だがその一方でがむしゃらに戦いを求めるこの男ならいい囮にはなる。
そして私なら、おびき寄せられたヴァストローデを説得、あるいは捕獲・連行できる。
それが、現在の十刃を捨石とみなしている藍染の方策なのだろう。
けれど最近のノイトラは荒れている上に、ネリエルへの反発も強かった。
これでは囮にすらならず、せいぜい撒き餌。
─── 悪くしたらただの捨石。
そんなことぐらい、藍染様なら見抜いておられるだろうに。
もしかしたらそれが目的なのかしら。
なら仕様がないわね、とネリエルはため息を押し殺した。
「じゃあ好きになさい。けれど定期連絡だけは怠らないで」
「煩エッ、テメエに指図される覚えはねえっつてんだろッ?」
「『指図』してるのは私ではなくて藍染様」
「藍染サマ、藍染サマって煩ェんだよテメエはって、あ…、待て、オイ! テメエ、ネリエルッ!」
あっさりと踵を返したネリエルの背中に向かってノイトラは吼えついた。
だがネリエルが振り返るはずもない。
「ちくしょうっ…」
その悪態を聞きつけたネリエルの口元には微笑が浮かんだのだが、
ノイトラが目にすることができたのは後姿だけ。
月明かりを受けて深緑に色を変えた豊かな髪がゆったりと風に揺らし、
やがて砂丘の向こうへと消えた。
「莫迦にしやがって…」
ノイトラの知る彼女は、無表情だった。
自分の従属官以外にはおよそ感情というものを見せることはない。
一度、笑う姿を偶然見かけて、どれだけ驚愕したことか。
ノイトラにはせいぜい冷笑を見せるだけだというのに。
「…クソッタレがァッ!」
だがノイトラの怒鳴り声は、ネリエルに届くことなく砂塵に撒かれて消えた。
→落魂2
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