それから何日経った後だったか。
「これは…?」
ノイトラから監視の目を外さぬようにしながらも、
ヴァストローデを求めて遠く別のコロニーを探索していたネリエルは、
乾いた空気の中に大量の死の匂いが漂いだしたのを嗅ぎ取った。
その中心で死を振りまいていたのは間違えようも無いあの霊圧。
「やはり…、ノイトラか…ッ!」
急ぎ駆けつけたネリエルが目にしたのは、廃墟と化したコロニーだった。
さほど力のない虚たちが集まって、人だった頃のように寄り添い、生活していた場所だったのだろう。
殺された幾百もの虚の霊圧が、名残となって空に漂っていた。
そして未だ粉塵が空気を濁すその瓦礫の中にノイトラが超然と立ち尽くしている。
それを目にしたネリエルは、ぎりりと歯軋りをこぼした。
ネリエルにも虚としての本性というものがある。
人の形へと回帰し、理性的に振舞ってはみても、
遥か昔に人間だった頃とは天と地ほどもその存在の意味が違うのだと魂の芯で悟っている。
いくら魂の外殻を強く鍛え上げても、いくら理性で拒否しても、
強大な力に見合うだけの飢餓と衝動をネリエルもまた抱えている。
それを制して送る、見せ掛けだけは安穏な日常こそが、己との闘いの成果。
だがそれも、力を解放するあの瞬間、思うままに力を振るうあの甘露に比べたら水に等しい。
なのに下位とはいえ同じ十刃たるノイトラのこの行いはどうだ。
形と理性を得、分を超えた強大な力を得て尚、欲と感情の赴くまま殺戮を繰り返す。
まるで怒り狂った子供のように、全てを周囲にぶつけている。
ネリエルは、ノイトラの前に立った。
「呆れるわ。子供なのね、十刃になっても」
ネリエルがノイトラを子供だと決め付けたのは初めてではない。だが今回は声の響きが違った。
ノイトラは大きく眼を見開いた。
「何だと…? 待て! てめえ…!!」
ノイトラは食い下がってきたが、ネリエルは無視して背を向けた。
そのはいつになくきつく結ばれていたが、ノイトラが目にできたものはやはり背に流れる深緑の髪だけ。
そしてその瞬間、風にネリエルの髪がはらりと揺れて、白く布で覆われた細い背が一瞬、姿を現した。
その下に隠されているのは3の文字。
今のノイトラがいくら足掻いても遠すぎる数字。
大量殺戮で一旦は収まったはずのノイトラの渇きがジワリと腹の奥を侵していく。
「チクショウ…ッ!」
ノイトラはネリエルとは逆の方向へ歩き出した。
そしてその口から呪詛に似た言葉が吐き出される。
もっと殺せ。
殺して殺して殺しつくせ。
この砂漠が屍で埋まっても、砂の数ほど呪詛を浴びても、俺は戦って、戦って、戦い続けてやる。
*
廃墟とノイトラを後にし、やっと常にない怒りから我に返ったとき、
ネリエルは一人、砂丘に囲まれて立ち竦んでいた。
─── いつもと同じ月。
いつもと変わらぬ乾いた風景。
結局のところ、ノイトラだっていつもと同じだ。
頑ななあの男は絶対自分を曲げない。
繰り返される愚かな殺戮、無謀な戦い。
いくら打ち負かしても、いくら諌めても変わらない。
諦めたはずなのに、裏切られたと感じるなんて。そんな甘さが自分に残っていたなんて。
「んもう! いやになる!」
足元から砂が舞い上がった。
「え…? やだ…」
子供のように足を踏み鳴らしていた自分に気がついて、ネリエルは肩を落とした。
─── 影響を受けすぎよ、ネリエル。
あなたまで子供返りしてどうするの?
もうちょっと冷静になりなさい。
ネリエルは自分に言い聞かせる。
─── ネリエル。
あなたは第三の十刃なの。責任があるの。
あなたは幾多もの虚を、同胞を喰らい尽くして頂点に立ったの。
その結果のこの力。
その力で、今の地位に安穏と胡坐をかいているのもあなたなの。
だから罪は重い。
自省の念に駆られ、ネリエルは目を瞑った。
─── …そう、自覚のないノイトラより遥かに重い。
けれど月明かりさえ無い心の闇に浮かぶのは、やはり少し首を傾げたノイトラの後姿。
─── なんて寂しそうなんだろう。
あんなにたくさんの虚が無意味に殺されたというのに、何故、想う先は、殺戮者たるノイトラなんだろう。
ネリエルは刀を抜いた。
そして切先を月に向けて問う。
退化の恐怖に怯えながら、虚として進化し続けた意味などあるのか。
進化の袋小路に入り込んだ我々に、なぜ殺戮しあう選択肢がまだ残されているのか。
一方で、意識せぬようにしていた疑念が心の奥に鎌首をもたげる。
もしかしてこれは最初から組み込まれているのではないのか。
無為に殺戮し合い、共食いを繰り返すことで、虚圏は虚圏なりにバランスをとっているのではないか。
ならば、在り方に反発し、燻る衝動を殺し続ける私こそが異物。
ノイトラは真の虚。
忠実なる駒。
そして確信に似た諦観が心を満たす。
だとすれば、ノイトラや私はともかく、
おそらく藍染さえも予定調和を構成する盤の上の駒のひとつに過ぎない。
ネリエルは空を見上げ、再度、刀を構えた。
何故にかくも無慈悲なのか。希う隙さえ与えてくれない。
「ぐあぁぁぁぁぁッ…!」
月に吼えたネリエルの声は、砂の波に飲み込まれて消えた。
だが項垂れたその姿は、砂の表層に濃く影を残した。
*
それからまたどれぐらい経った頃だろうか。
「ノイトラ…ッ!」
今にも消えようとするノイトラの霊圧を察して、ネリエルは砂上を駆けた。
明らかに格上の虚の霊圧が、ノイトラを消し潰そうとしていた。
分を弁えず敵いもしない相手に立ち向かったのかと思うと、どうしようもなく腹が立った。
夢を見るのは勝手だ。だが自分の責任を考えたことがあるのか。
残された者の気持ちを考えたことがあるのか。
「この…、愚か者がッ」
だが、ようやく辿り着いた時は丁度、地面に臥したノイトラが止めを差されようとしているところだった。
惨状を目にしたネリエルの体内に熱が巡った。
その歓喜の叫びに、ネリエルは一瞬、迷った。
しかしこれは殺戮本能。
なんとしても生き延びようと、敵は全て排除しようとする原始の衝動。
力として解放すれば例えようもない快楽が全身を満たす。
御しがたいこの渇望だが、今は抗う必要もあるまい。
一瞬の瞑目の後、ネリエルは刀を抜き、帰刃した。
*
目覚めたノイトラの第一声は、何故助けたのかという弱々しい問いだった。
─── 助けられたと認めるのね。
ネリエルは苦笑したくなった。
普段の虚勢はどこへ消えたやら、
見下す女に助けられたノイトラの様子といえば惨めなこと極まりない。
その男を前に、上位の十刃としてのネリエルの責任感と矜持が疼いた。
─── 惨敗したこの男は、今なら己の弱さの根幹を思い知ることができる。
もし変わることができれば永らえることもできる。
そうすればノイトラ自身が望むとおり、強くなれるチャンスもある。
藍染様のお役に立てるようにもなる。
けれど実際にネリエルの心を占めているのは強い侮蔑だった。
戦いに陶酔し、外殻を厚く廻らし、他の介入を拒否するノイトラの傲慢さ。
今ここに存在していること、それを認識できることのありがたさなど最初からわかろうともしない。
喰らってきた幾多もの虚の命を背負っていることなど微塵も考えない。
他の十刃が責を果たすために、どれだけの苦しさを負って自分を制しているのか考えもしない。
─── ノイトラ。あなたは浅はかで愚かだ。理屈も筋道もない。
せっかく取り戻した理性の声を無視し、自らを貶め続けていくのならば、あなたに先はない。
嘗て人だった存在としても虚としても刹那的すぎる。
例え勝ち続けても、あなたに未来はない。
ネリエルは心を決めた。
この男は結局のところ、責を預かる上位十刃としての庇護の対象に過ぎない。
ならばその役目を果たすまで。
それ以上もそれ以下もない。
「あなたが私より弱いからよ」
なぜ助けたのだというノイトラの問いに返したその応えは、
たった一つの目に憤怒を燃え上がらせた。
だが何の感慨も湧かなかった。
─── それを奇麗だと思ったときもあったのにね。でももうおしまい。
無表情のまま背を向けたそのとき、ネリエルは自分の中で何かに蓋をしたような、そんな気がした。
*
「くだらねえ」
一人残されたノイトラは地面に仰向けに横たわり、手足を伸ばした。
冷めた面が月光に晒された。
ネリエルに助けられた上、弱いと断定された自分が例えようもなく惨めだった。
負けたのだ。
それも完膚なまでに。
─── 強くなりてえ。
ノイトラは歯噛みをした。
─── ろくでもねえ戦い方をした。
みっともねえったらありゃしねえ!
しかもネリエルに助けられたんだ、俺は。
なんてザマだ! 死んだほうがよっぽどマシだったぜ。
口の中に広がる血の味さえも忌々しかった。
─── 強くなりてえ。
ネリエルのやつ、何様のつもりだ。
破面だから何だってんだ。
結局、屍骸なことには変わりねえ。
終われば砂になって消えるだけ。おキレイなもんだ。
ネリエルの横顔が脳裏を過ぎった。
─── けれど魂は違う。
心は違う。
情けという名の拷問を受けて、少しづつ削り取られていく。
その断面からは、もう失くした筈の熱い赤い血が命を道連れに流れ出していく。
俺は死んでいくんだ。生きながら死んでいく。
あの女の傲慢に火炙りにされて、殺され続けていく。
ノイトラは、消えそうになっていた身体が、またその存在を取り戻しだしたのを感じた。
─── 強く、もっと強くなりてえ!
あの女だけは許せねえ。
勝つだけじゃだめだ。
殺すだけじゃだめだ。
絶対この惨めな思いを何百倍にして味あわせてやる。
「…くそがァッ」
ノイトラは、勢いよく立ち上がり、刀を振るった。
塞がりかけていた幾多もの傷が開き、夥しい血が再び流れ出す。
だが月の光の下では黒く鈍く光るだけで、その痛みさえ何の意味も果たさなかった。
→落魂3
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