それからのノイトラは手負いの獣も同然だった。
鍛錬と称して、十刃にもその従属官にも見境なく挑んでいった。
ただ一人、ネリエルを除いて。
やがてノイトラの狂気に、虚夜宮全体が混乱に包まれ始め、それは藍染の耳にも届くこととなった。
元々、藍染は十刃の管理などに興味はなかった。
使い捨てだし、虚の本性というものも熟知していたから、
殺し合ってもそれが淘汰に繋がるだろうとと放置していた。
だがこの有様では腰を上げねば仕様があるまい。
藍染はネリエルを使うことに決めた。


「さて、ネリエル。君を今日、呼んだ訳は分かっているね?」
「いえ、藍染様」
「ほかでもないノイトラのことだ。あの遠征以来、とても荒れているね」
「…はい」
「あれでは役にたたないね。そう思わないかい?」
「…わかりません」

藍染は、ゆったりとした笑みをその口元に浮かべた。

「いや、君はわかっているよ、ネリエル。君はとても賢い女性だ」
「とんでもありません。私は愚かです」
「ネリエル」
「けれどこれは私の責任です。だから後始末は私がつけます」

 藍染の双眸が細められる。

「君にできるのかい?」

 ネリエルは真っ向からその視線を受け止め、跳ね返す。

「もちろんです。申し訳ありませんでした」

 藍染は、微笑で答える。

「構わないよ、ネリエル。私は君に期待している」
「…ありがとうございます」

平然と虚言を吐き続ける藍染に対して頭を垂れたまま、嘘つき、とネリエルは心の中で呟いた。



        *



「んだよ、珍しいなあ、ネリエル! てめぇが俺を呼び出すなんてよ?
 しかもわざわざ虚夜城の外かよ。藍染サマに隠れてコソコソするなんて、ネリエルサマらしくねえんじゃねえか?
 ハッ! 口を開けば藍染サマ、藍染サマだもんな?」

振り返ったネリエルは、無言で刀を抜いた。

「…相変わらずよく喋るのね。用があったから呼んだの。用もないのにウロウロするあなたと一緒にしないで」

切先を向けられてノイトラは目を剥いた。

─── あのネリエルが闘いを挑んでくるなんて信じられねえ。
いつものらりくらりと逃げて、なるべく刃を交えないようにしていたあのネリエルが…。

だが現実にネリエルは刀を構えている。その目はギラギラとノイトラだけを見つめている。
ノイトラの血が熱くなった。

「…面白ェッ! ぶった切ってやるぜェッ!」
「やってみなさい。あなた程度にできるとは思えないけど」
「煩せェッ!」

ギィィンと刀同士がぶつかる音が暗闇に響いた。
摺りあった刃先から火花が飛び散る。
だが間合いが詰まったのは一瞬。
力任せにノイトラが振り回す、やたらと大振りで円月刀に似た奇妙な形の鎌から、ネリエルはすばやく身を引いてかわした。
だがその失態に振り回されることなく、ノイトラは大鎌を大きく構え、振り下ろし、砂塵を無駄に撒き散らす。

─── 派手なものね。

一瞥でその戦術が変わらないことを見抜いたネリエルは、
回転を加えた足捌きで更に砂を巻き起こして行方をくらました。

「クソッ、見えねえッ」

砂煙のなかでネリエルを見失ったノイトラは毒づいた。すると耳元で、

「自業自得よ」
とネリエルが囁く。
慌てて振り向いても、そこにネリエルはもういない。

「テメエッ!! …うッ!!」

怒鳴りつけると同時に、ネリエルのつけた背の太刀傷から血が噴出した。
切られたことさえ気づいていなかったノイトラは、焼けつく痛みに歯噛みする。

「…クソッ。だが闘いはこれからだぜッ!!」

ノイトラが大鎌を振り回して爆風を起こし、空気中に散乱していた砂塵を吹き飛ばすと、
澄んだ空気の向こうにネリエルが立っていた。
ノイトラは大鎌を構えなおす。

「死ねェッ、ネリエルッ!」

だがネリエルの体捌きは、愚鈍極まりないノイトラのそれを遥かに凌駕していた。
ノイトラは動きも太刀筋も単調。
力だけは突出しているものの、所詮、ネリエルの敵ではない。

だからこそネリエルの心が疼く。
相手が誰であろうと、こんなに弱い相手となど闘いたくはない。
傷つけたくもない。

─── ましてや殺したくなんて。


けれどこれが藍染様に賛同し、ついていくと決めたネリエルの役目。
己を失う恐怖に負けて幾多もの命を奪い去り、ここまで上り詰めてきたネリエルの責任。

不意に、迷いなく戦うノイトラの姿が眩しく見えた。
思うままに振舞うその子供っぽさが、とても自由に見えた。
だからネリエルは頭を大きく一振りして、下らない考えを振り払おうとする。

─── しっかりしなさい、ネリエル。
子供の我儘を羨んでどうするの。
これはあなた自身が決めたことでしょう?
あなたは強い。
だからノイトラを殺すか殺さないか、あなたが決断したの。
ノイトラに選ぶ権利はない。
…そうでしょう?

ネリエルは意識して躊躇いを封じた。
そして心を決める。
まずは心臓や頭、喉などの急所を狙う振りをして四肢に狙いを定め、動きを奪う。
そして止めを刺す。
嬲り殺しに近いが、ノイトラはしぶとい。
止むを得まい。


刀同士が再びぶつかり合った。
肉を割き、骨を砕く音が鈍く響き渡る。
ネリエルは無傷で、返り血さえ浴びていなかった。
着衣は月光を浴びて純白に輝き、ネリエルを美しく包み上げている。
静かな霊圧がその肢体を陽炎のように覆い、ノイトラを圧倒した。

対するノイトラは既に満身創痍。
傷ついた四肢の動きは鈍く、体幹部につけられたいくつもの傷から血が流れ出ていた。
もはや戦える身体ではない。

ネリエルは心中で呟く。
─── これではただの殺戮ね。結局のところ、私もノイトラと少しも変わりはしない。

呵責の念がその動きを鈍らせた。それを必死のノイトラが見逃すはずもない。

「喰らえッ!」

ノイトラの振るった大鎌の刃先が、ネリエルの頬を掠めた。
つうっと血が一筋流れる。

─── なんてこと。

ネリエルは愕然とした。

─── こんなことができるようになっていたなんて…!

「ハッ! テメェ…、何てツラ、してやがる。ビビってんのか?」

傷だらけの身だというのに、不敵な笑みで煽ってくるノイトラを、ネリエルは半眼で睨みつけた。

─── それなりに成長したというわけね。ならいいわ。ちゃんと相手してあげる。

ネリエルは、頬を伝う血を指先で拭い、口元へと運んだ。
舐め取ると、血の味が口内を満たす。
自分のものなのに、その味に興奮を抑え切れない。
背筋に快楽の痺れが走り、その刺激に己の虚としての在り方を再確認させられる。
大きな力が体中に満ちるのを感じ、どうしようもなく昂ぶる。

ネリエルの本性が今、姿を現そうとしていた。
そしてその姿に、ノイトラは、酷く圧倒されていた。

初めて見るネリエルの血の色、
半ば恍惚としたその表情、そのくせ酷薄そうに歪む口元。
敵だというのに、全てが扇情的でどうしようもなく腹の奥が疼く。

混乱したノイトラは、クソッと怒鳴って、大鎌を振り上げた。

「呆けてんじゃねえぞネリエルッ! 俺に殺されたいのか、あァッ?」
「…まさか」

ネリエルは頭上に振り下ろされようとするノイトラの大鎌を刀の鍔で受けて押し返し、
反動を利用してそのままノイトラの懐へと入り込んだ。
そして刃先を喉元に突きつける。

「あなたこそなんて顔してるの? 泣きべそかいた子供みたい」

微笑までつけてやると案の定、ノイトラは激昂した。
真後ろに飛び去ずさり、大鎌を構えなおす。
ネリエルは薄く微笑を浮かべた。

─── なんて単純な動き。可愛いものだわ。さあ、どうやって止めを刺そうか。

ネリエルの心は、必死に守り続けた理性の外殻を失い始めていた。

─── 所詮、私も虚なのだ。己を受け入れるだけでいい。

押し込めていた本音が、そして癒えることのない渇望が、
混濁したうねりとなってネリエルの意識を飲み込み始めていた。
そしてその時、拡散していたノイトラの霊力が一気に収縮を始めた。
霊圧が限界を超えて上がっていく。空気も緊張を増す。

「…祈れ…」
「まさか、帰刃するというの…?」

そんなことは許されていない。
ネリエルは我に返った。

─── 今、私闘のために帰刃などしたら、藍染にノイトラ抹殺の口実を与えるだけだ。
そこで待つのは、決してノイトラ自身が望んで止まぬ闘いの末の死などではない。
ただの永遠の煉獄。
そこで業火に焼かれながら、無為に存在し続けるのだ。
あの藍染の恐ろしさをこの男はまだ知らないというのか?

「止めなさい、ノイトラッ!」
「…ウァッ!」

ガツッと重い音を立てたノイトラの大鎌は、
一瞬で距離を詰めたネリエルの細い剣にあっさりと跳ね上げられ、くるくると回転しながら空へと飛び去った。
少し離れた地に突き刺さり、砂塵が舞い上がる。

「テメエッ、ネリエルッ!」

空手になったノイトラが呆然としたのはほんの一瞬。
遠く跳ね飛ばされた自分の武器に走って向かおうとした。
だが身体がうまく動かない。
足がもつれる。
その隙をネリエルが見逃してくれるはずもない。
突風に頬を撫でられたと思った瞬間、ノイトラは足元を払われ砂上に膝をついた。
と同時に首筋にも冷たいものが当てられたのを感じた。
その背を汗が一筋流れる。

「…クソッ」
「動くと死ぬわよ」

 いつの間にかネリエルがノイトラの背後を取り、首元に刀を突きつけていた。

「…ハッ! 動かなくても死ぬんだろ?」
「…」

確かにそのとおりだ。藍染がノイトラの廃棄を仄めかしたから、
ネリエルは自分でノイトラを討つことを選び取ったのだ。

─── もしかしてノイトラは、藍染の命令も、私の心も知っていたというのか。

ネリエルは呆然とした。

「殺せ」

ネリエルの戸惑いを見透かしたように、ノイトラが皮肉な笑みを浮かべた。
だがネリエルはその刀を振り下ろすことが出来ない。
その戸惑いを見透かすように、ノイトラは皮肉気に笑った。

「…まァ、その必要も無えようだがな」

ノイトラは、その身体から力を失いつつあった。

「ちくしょう…」
「ノイトラ…?」

軽い音を立てて砂上に落ちたその身体には夥しい数の傷があった。
全てはネリエルがつけたもの。
その傷から霊力が零れ、大気を構成する霊子へと回帰していった。
まるでこの世界を満たす砂粒のようにさらさらと、猛々しいノイトラの在り方とは真逆にも思える儚げな音を立てている。
それは仮の命が消え去る音色だった。

「…ノイトラ…ッ!」

その悲鳴に似た声は、しかしノイトラの耳には遠すぎた。



→落魂4
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