渦巻く心

「チェック」
 声と共に、コツンと小さな音が響き渡る。その声と小さな音に、光也がワナワナと手を奮わせる。凝視していた盤から視線をあげると、慶に向かって人差し指を突きつけた。
「もう一回!」
 そしてパンと両手を合わせ、今一度頭を下ろす。
 光也は慶に、ここ“金星”にて既に六回程チェスの相手してもらっていた。その六回目も惨敗。六回もやっていて、光也は未だに勝つ事ができていなかった。
「いいのか、あいつ放っておいて」
 そんな光也に苦笑いしつつ、慶が親指で自分の後方を差す。そこでは、仁が物凄い剣幕で二人を睨んでいた。
「いいんだよ。オレ一人で行くっつったのに勝手についてきたのはあいつなんだから」
 駒を初期位置に戻しながらそう言い、光也はチェスに意識を集中させる。
 慶とチェスをしていると昔に戻った感覚になる…。そう光也が言い出して始まったこの勝負。何度負けても諦めない、負けず嫌いな光也を、慶も昔に戻った気持ちで見ていた。それでも光也と違い、慶にとっては後方からの視線が痛く、そろそろ終わりにした方がいいんじゃないだろうかと思っていた。
 そう思っていた直後、仁が席を立ち上がり二人の元まで来ては、チェス盤のど真ん中へと手の平を勢いよく叩きつけた。同時に「みつ!」と声を張り上げる。
「なんでこいつとばかりチェスをするんだ。僕だって相手はできる」
 怒りを露わにした仁が光也に詰め寄った。そんな仁の苛立ちすら流すように、光也はチェス盤に叩きつけられた仁の手を邪魔だと払いながら、振動で飛び散った駒を元に戻した。
「お前とより慶との方が慣れてるし、やりやすいんだよ」
「6回も負けておいて言える台詞か?!」
「うるさいなあ、次は勝つんだよ」
「“次は”って、光也、昔からそう言ってて俺に勝った数なんて片手で足りる程度じゃないか」
 慶が右腕をあげ、指折り数える。その言葉に光也は唇を尖らせ、眉を寄せた。
「昔から、負けず嫌いだもんなあ」
 そう言いながら、慶が光也の髪の毛に触れる。その手を光也が払うより先に仁が払った。
「何なんだ、昔からって、みつ!」
「なんでお前が怒ってるんだよ!」
「ちょっとあなたたち、うるさいよ! お客は他にもいるんですからね!」
 言い合いをしていた光也と仁より甲高い声で、節がお叱りを入れる。その節に笑い、慶が光也に今日の勝負は終了だと持ち掛けた。光也は渋々頷き、いまだ拗ねている仁と共にカフェーを後にした。
 
     ◆

 日暮れの帰りの道、二人は歩いて家路へと向かっていた。お互い口を開かず、顔も顰めっ面、周りから見ればどちらも不機嫌ととれる雰囲気だった。
 気まずい空気が流れる中、仁が口を開く。
「お前とあいつに共通する昔がある事が、僕にとっては不快だ」
 その言葉に光也が足を止める。不快。勝手すぎる言葉だった。
「僕の知らないみつを、何故あいつが知ってる。僕の方がみつと一緒にいる時間は多いはずなのに」
 瞬間、光也は握り拳に力を込める。
「おまえ、はっ…!」
 殴ってしまいたい気持ちを抑え込み、光也は言うなり春日家へ向けて走り出した。後ろで仁が「みつ!」と叫んでいるのに唇を噛みしめ、ひたすら全速力で走った。
 いたたまれない気持ちに反吐が出る。仁は、まだ光也が慶光だと思っている。イコール、信じてもらえてないという事。確かにまだ出会ってそう長い月日が経っている訳ではないが、慶という人物を挟んでいてもなお、信じてはもらえない。
 仁が光也を“みつ”と呼ぶ度、それが慶光なのか自分なのかわからなくなり、光也の頭の中は常に混沌としていた。だが、意識が光也で体が慶光なのかもしれないとか、やはり自分と慶光は別なのだとか、そういうのは考えてもいなかった。慶と再び出会ったことによって、考え方は色々と変わってきていたはずだった。それが、唯一の救いだったかもしれないと。
 仕方のないことだと言ってしまえばそれで終わる。それでも―――。
 走り着いた春日家の門に手をつけ、荒れた息を整える。目頭が熱くなり、じわりと涙が染みてくる。目眩がしそうになるのを堪え、幾度か深呼吸を繰り返していると、庭から足音が聞こえた。同時に、柔らかい声色が聞こえる。
「ナイトー、おかえりぃ」
 面をあげると、亜伊子が笑顔で此方に駆けてくるのが見えた。光也は慌てて目元に浮かんだ涙を拭い、突進してきた亜伊子を受け止めた。
「ただいま」
 同じ様な笑顔で返すと、亜伊子がきょとんとした顔で見つめ返した。
「どした?」
「ナイト、悲しいの?」
 悟られまいと拭ったはずの目元に、亜伊子が手を伸ばす。指先が触れたところでその手をとり、そうじゃないと首を横に振る。まだ小さい亜伊子に癒しを求め、ぎゅうぎゅうと抱き寄せると、亜伊子がくすぐったいと笑いながら「あ!」と声をあげた。
「キングー」
 亜伊子が仁に手を振る。駆けてくる足音を聞き入れては亜伊子を離し、今度は家の中へと走り出した。
「みつ!」
 走り出した光也を呼び止めるが、仁が亜伊子の元へ来た時には既に姿を消していた。仁が亜伊子に戻りの挨拶をすると、亜伊子がキラキラと目を輝かせて仁を見た。
「追いかけっこー? ビショップもやるー」
 息を切らしながら玄関と亜伊子を交互に見る。そして小さな妹の頭を優しく撫でた。
「ごめんな、ビショップ。追いかけっこじゃあない」
 見つめ返す亜伊子を残し、仁は光也を追って家の中へ入っていった。

     ◆

 自室――と言っても慶光の部屋だが――に入った光也は、直ぐに追いついた足音に気付いて部屋の中を見回した。どうすればいいのか次第に混乱し、とりあえずノブをおさえてみる。だが、仁が向こう側からガチャガチャと何度も回してくるうちに、ダメだと思って光也はそこから手を放した。ドアが開き、仁が現れる。
「なんで、追ってくる…」
「みつが逃げるからだろう」
 冷静な仁が少しずつ光也を追い詰める。光也が壁に背をつけた時、仁は横の壁に力強く拳を叩きつけた。
 打音と鋭い眼光に、光也が少しだけたじろぐ。
 本当は、何故逃げているのかもわからなくなってきていた。仁が放った言葉に苛ついたから? 仁が放った言葉に傷付いたから? 仁が信じてくれないから? 仁が、慶光を見ているから…?
「なあみつ、僕は“お前の昔”を知らない?」
 仁が酷く悲しそうな表情でそう言う。そんな顔は卑怯だと、光也は首を横に振った。
「聞くなよ、オレだって! オレだって“お前の昔”を知らない!」
 慶光ではない、慶光は別にいる、慶光はどこかにいる、お前の大切な慶光はどこかに。
「言っただろう、オレは光也だっ…て」
 自分にもそう言い聞かせないと、そうでなくなってしまう気がした。
 そのままずるずると座り込み、頭を抱える。仁も同じように光也の隣に座り、少し躊躇いながら光也の肩へと手をのせた。光也は、拒むことはせずにただただ頭を抱えている。無言だった帰り道と同じく、沈黙だけが時を進めていく。そのうち、仁が光也の肩を、ポンポンとリズム良くたたき始めた。ぐずった赤ん坊をあやすように、光也の気持ちを落ち着けるように、静かに。
 中途半端だと、まだ言い足りないと思いながらも、光也はその心地よいリズムによって徐々に意識を手放していった。
 自分の体に光也の体重を感じ、仁は少し体をずらして彼の頭を膝の上にのせて寝かせる。さらさらと流れるその漆黒の髪を指先で梳き、小さくため息をついた。
 光也が混乱しているのと同じく、仁も混乱していた。目の前の愛しい存在が、突然今までの人物とは正反対とも言えるだろう人物へ成り代わっていたのだ。百合子や亜伊子の事も、仁の事すらも忘れられていたとなって、誰が黙っていられようか。それでも距離を、気持ちを整理して接してきていた。だが、それが光也への重荷にもなっていたと今更思っても、過ぎ去った日々を書き換える事も塗り潰す事もできない。
 部屋にノックの音が響く。仁が返事をすると、ドアが静かに開かれ、その隙間から亜伊子が顔を覗かせた。仁の膝枕で横になる光也を見て、亜伊子は小さく声を出した。
「ナイト、寝ちゃった?」
 音を大きくしないように気を遣っている妹が可愛くて、仁は微笑みながら頷いてみせた。そして唇に人差し指をあて、もう片方の手で亜伊子を室内へ招く。亜伊子も微笑んで仁の元へ足早に向かう。もちろん、寝てしまった光也を起こさない様に。
「ビショップも、おいで」
 仁は空いてる片膝を示した。亜伊子は驚いた表情を見せたが、直ぐにその片膝へ頭をのせて、光也とは対になるように寝そべった。光也の髪を梳くように、亜伊子の髪にも手を触れる。髪質の違いを両手に感じながら、仁はただぼんやりと空を眺めた。
 暫くそうしていると、亜伊子の方からも規則正しい寝息が聞こえてくる。この状況を招いたのは自分だが、どうするかと悩んでいると、亜伊子を探しに来た原沢が部屋に入ってきた。互いに声と物音をたてない様、原沢は亜伊子を抱き上げ、お辞儀して部屋を出て行った。仁は光也の頬を軽く抓り、呻きながらも起きそうにない光也の体を引き寄せ、同じようにそこへ横になった。
「ごめんな」
 何に対しての謝りなのか。全てに対しての謝りなのか。光也に対してか、自分に対してか。
 もう一度ごめんなと呟き、仁も瞳を閉ざした。

     ◆

「仁!」
 耳に響く怒声で仁はガバッと身を起こす。辺りを見回すと、窓からは陽の光が差し込んでいた。声の主を見ると、光也は不思議そうな顔をして首を傾げていた。
「なんでオレここで寝てるよ。お前も」
「…さあ?」
 首を傾げたままの光也に、仁も首を傾ける。覚えてはいるが、光也がそれ以上口を出さないのなら、言う必要はない。光也は仁の答えに肩を竦め、体中の骨を鳴らしながら立ち上がる。仁が習って立ち上がると、光也と目線が合った。光也は自身の腹に手を添え、腹減ったと小さく笑う。
 我慢出来そうにない光也を先に行かせ、仁は一人部屋に残った。
 接し方を改めるべきか、今まで通りで過ごすか。多分今まで通りでも問題はないだろう。それでも光也が、その事でほんの少しでも苦しんでしまうのなら、出来るだけそうなる事は避けたい。接し方を改めたならば、光也は怒るだろうか。
「難しいな、みつ…光也。光也…」
 いつか昔話ができるといい。お互い自然に、そういう話が出来る時が来るといい。
 仁はため息を一つこぼしてから光也の後を追って部屋を後にした。

2009.5.13
一回目脱走で仁と光也の走りに差があるのは、光也が落とした手荷物を仁が拾ってたからとか、
仁が持っていた手荷物を光也が叩いてわざと間を作ったとか、なんか適当に、そんな事に…しとこう…よ?