Deletion

 半ば放心状態で春日家へ戻ってきた。門前には警察がいるのにも関わらず、僕は堂々と正面から入っていった。僕の存在に気付いた警察が不思議がりながら声をかけてくる。当たり前だ、今の僕は謹慎の身だ。それでもそんな事はどうでもよかった。少なくとも今は。
 警察の言葉に曖昧な返事をし、玄関まで歩く。玄関の前に、百合子と亜伊子が立っていた。
「仁、どこに行っていたの…」
 百合子が心配そうに僕の顔色を伺ってくる。百合子の腕を握りしめる亜伊子も同じ様な表情をしていた。
「光也が…」
 それ以上口を開けなかった。口にしたら、それが核心へと変わってしまう。だが、その言葉だけで全てを悟ったのか、百合子は目を伏せ、口を噤んだ。亜伊子は未だにわかっていないようで、顔色が悪いだろう俺と百合子を交互に見ていた。
 光也が、いなくなった。
 いや、正確には元の場所に戻っただけなのだろう。僕を助けにきたと言った。そうだ、僕を助けてくれた。あの時から、初めて“光也”と言う人物にあった時から、何度も僕を助けてくれた。最終の目的が、あそこだったというのか? あまりにも酷すぎる。
 全てだった。“光也”という人物に、心から素直になれた瞬間だったのに。
「キング…クイーン…」
 亜伊子が泣きそうな顔をしている。僕だって泣きたい。
「…今日はもう、寝るよ」
 不安そうな二人を残し、僕は一人部屋に戻った。自分の部屋ではなく、慶光の…光也が使っていた部屋に。
 主の帰りを待つ部屋は閑散としていた。椅子に手を触れてみれば、それは酷く冷たかった。それとも、僕の手が冷たいのだろうか。その椅子に腰掛け、頭を抱える。
 もう、二度と会えない。もっと早くに信じて、もっと早くに気付いていればよかったのだろうか。もっと早くから出会えていれば。
 慶光のせいじゃない、光也のせいでもない、全ては僕が…?
 でも、本当に―――。
「馬鹿げてる。本当にいなくなった、僕の目の前から」
 悲しみの中に怒りが見え隠れする。光也とより慶光といた時間の方が遥かに長いのに、最後になって気付いたこの想いを、行き届いたかわからないこの中途半端なモノを。
「どうすればいい、光也。お前の所為で僕は…」
「光也君を責めてはダメよ、仁」
 いつの間にか傍まで来ていた百合子が、僕の肩にそっと手をのせる。百合子の気配に気付かないほど滅入ってしまっていたのだろうか。
 情けない、こんな姿は見られたくなかったというのに。寧ろこのまま泣きついてしまおうかと、そう思った瞬間に涙が頬を伝う。慌てて涙を拭い、そのまま俯く。
 幸福になれなど、惨い事を言う。僕を置いてどこかへ消えたくせに。
 耐え難いこの苦痛を、どこに捨て去ればいい? 
 百合子の指先を頬に感じる。椅子か僕の手か、どちらのかわからない冷たさとは違い、その指先には確かな温もりがあった。そしてその指は、僕の涙の跡をなぞる様に静かに動いた。
「あなたが泣いてはいけないわ。光也君の気持ちを、もらったのでしょう?」
 もらった…?
 その言葉にハッとして面を上げる。百合子の目が、少しだけ赤くなっていた。刹那、小さな微笑みを見せる。そして音もなく、部屋を後にした。
 ポケットの中を探る。指先に当たったそれを取り出し、ぎゅうっと、力一杯握りしめた。
 それを握りしめたまま廊下に飛び出る。視界の先で、百合子が自室のドアノブに手をかけていた。
「百合子!」
 その場で百合子を呼び止める。不思議そうな顔を見せる彼女に、
「ありがとう」
 そう告げると、百合子は今一度微笑みを見せて部屋の中へ入っていった。
 一人ではない。そうだ、僕の傍にはいつも光也がいてくれる。これがある限り、僕にとっての不幸は常に淘汰される。そしてその記憶は、常に鮮麗される。
 一人ではない事の喜びを、幸せを、僕は常に抱えている。それだけで…。

     ◆

 光也の見舞いに病院へ行くとせがむ亜伊子を留める日が続いた。亜伊子は「どうして?」と何度も訊いてきた。けれど僕も百合子も答えなかった。次第に不貞腐れてきた亜伊子は、原沢に俥を出すようにとまでせがむようになった。それでも、原沢にもきつく言っておいたから、彼も首を横に振るだけだった。
 そうして光也が元の場所に戻って数日後、僕らの前に慶光が戻ってきた。
 照れくさそうに微笑みながら現れた慶光は、少しほっそりしていたがそれ以上にサッパリとした様子だった。
 慶光の姿を見て、慶光からの一言を聞いて、亜伊子は声を荒げて泣いた。そこには、嬉しさと悲しさの両方が入り交じっていたのだろう。なぜなら、慶光が亜伊子の事を「ビショップ」と呼んだからだ。流石の亜伊子も気付いたのだ。僕が亜伊子の事はソレで呼んでやれと言ったのに、光也は亜伊子の事をずっと名前で呼んでいた。彼女の存在を、否定しないように。
 百合子も僅かながら、涙を零していた。
 でも僕は泣かない。もう、不幸でいることは終わったんだ。この先不幸が訪れない訳ではない。それでも、この努力は何事にも代え難い記憶の欠片となるだろう。
 だから僕は、笑顔で慶光を迎える。
「おかえり、みつ」
 光也との誓いは、生涯忘れない。
 ポケットの中に黒のナイトがいる。それだけで僕の気持ちは、一生薄れはしない。
 そしていつの日か時を越え、光也の元に届く事を祈って――。

2009.5.13
光也が戻った後の仁を妄想して妄想して妄想しまくってみたSS。
もうちょっと葛藤させればよかったかな…。