テーブルの上に小さな明かりを灯す。その僅かな明かりを頼りに、足音をたてぬよう薄暗い室内を移動する。ベッドサイドまで移ると、静かにドアの方を見直した。誰の気配もない事を感じ取ると、改めてベッドで眠る光也を眺めた。今夜の寝息は規則正しい。夢を見ているのかどうか、表情は微かに和らいでるように見えた。
以前このようにして部屋を訪れた時の、眠る光也がうなされていた事を思い出す。起こす事は叶わない。否、起こしてしまってもいいのかもしれないが、自分の存在を悟られてはいけないとその考えはなんとか押し留める事ができた。ただ、苦しむ光也を放ってはおけず、その手を取り、幾度も頭や頬を撫でていた。暫くして落ち着いてきたのか、光也の表情から強張りが薄れた。その様子をただじっと眺め、安堵してその手を離す。出来ればこのまま目覚めるまで傍に居たいと思いながら。
あの時は僅かながら焦りを感じた記憶がある。この部屋を訪れる度、またあの時の様な事があったらどうすべきか、そう思案にくれていたが、あれ以来、光也がうなされている姿は見なかった。だからか、以前より訪れる回数は大分減っていた。それこそ、以前は光也の寝顔を見る度に「今日も一日が終わった」等、毎日肩の力を抜くと同時にその寝顔に安らぎさえも求める位だ。守りたいと、そう思う反面、どこか心の片隅で彼に守られているとも感じとっていた。
漆黒の髪に指先を埋める。絡まることなく流れるその髪質に目を細め、そっと手を離す。何かを諭す様に頭を振り、来た時同様足音を忍ばせて小さな明かりの灯されたテーブルまで戻る。それを手に取り、静かに火を消す。真っ暗になるはずの室内は、窓から注がれる月明かりによって僅かながら明るさを残した。
ドアまで歩み、今一度ベッドの上の光也を眺めてから部屋を後にした。
◆
薄闇が溶け込む明け方。春日家の一室で、仁は光也の寝顔を眺めていた。いつもは仁の方が遅いのだが、今日ばかりは違った。仁が寝ていない訳ではない。だが、何故か唐突に目が覚め、この光也の部屋に行かなくてはならないと直感していたのだった。それは漠然としたもので、微かな不安はあるものの、はっきりとはわからなかった。
稀に、寝顔は死人の顔と同じだという輩がいる。だがそれも人によって違うのだろう。現に光也の表情は柔らかく、見ていて安心できるものであった。死人のソレとは全くもって異なるものだ。肌は白い方だ。首筋から鎖骨辺りにかけて、妙に色っぽさがあるのも気のせいではないだろう。思わず手を差し伸べたくなる。
思い立ち、仁は自分の指先を握ってみた。起きたばかりだからと言う訳ではないが、まだ冷たさがある。反対の手の平で指先を軽く暖め、それからその手を伸ばす。頬に触れ、顎・首筋・鎖骨へと指先を滑らせていく。汗をかいていない光也の肌は、触り心地さえも良かった。
浮き出た骨をなぞるように指を動かしていると、光也が小さく呻り声をあげた。口をぱくぱくさせ、仁を見ていた。仁は手を引っ込め、おはようと言う。光也も小さいながら返事をした。暫し言葉にならない声をあげてからもそもそと起き始めた光也は、仁が自分の部屋に居る事を大して気にも留めずに着替えを手に取った。
「仁、昨夜オレのとこにきたか?」
服の袖に腕を通しながら光也が訊く。仁が否と答えると、光也は小首を傾げた。
光也の話によると、ここ最近夜中に誰かが光也の部屋に来ている、という事だった。眠気の方が勝り誰かまでは確認できずの日々だという。ただ、善か悪かで言うと、善だと光也は言う。その理由を問うと、笑いながら「頬とか頭とか撫でてくれるから」と言うのであった。あまりにも単純な返答に、仁は呆れ、同時にそう言う光也とそうする相手に腹を立てていた。
仁は確かに部屋に忍び込んでは光也に触れ、そのままそこで寝てしまう事も屡々あった。だが、光也がそうされると言う日に限って、仁はそこに足を運んでいない。何故自分が触れたのと正体も見せぬヤツが触れたのとでそうも差が出るのかと不快になったが、そこには触れずに考えた。
光也という存在を慈しむ者。この家では誰もがそうであるはずだった。最初は戸惑いこそあったが、一緒に過ごすうちに、妙な蟠りも解け、皆が光也を受け入れるようになった。故に、光也に悪意を抱く輩は、少なくともこの家にはいない。光也自身は善だと言った。そうなると或いは外部の人間か。外部の人間として、仁が一番に思いついたのが金星のマスターだった。あのマスターはどうやら光也と深い関わりがあるらしく、仁はあまり快く思ってはいない。勝手ではあるが、そう思っていた。だが、外部の人間がそうも易々と入ってこれるとも思っていない。もしそうだとすれば、この家の警備には呆れるものがある。
「仁?」
何も喋らない仁を不審に思い、光也が呼びかける。そんな光也の顔を見つめ、仁は自分の考えだけではまだ情報が不足していると感じとる。組んでいた腕を解き、光也の背中を叩いてドアへと促した。
「皆にも訊いてみよう」
朝食の前に仁が声を掛けると、直ぐに皆が集まった。そこで百合子や亜伊子、家令にその事を訊くが、皆首を横に振るばかりだった。
「だから言っただろう、別に害でもなければ悪でもないって」
“だから”の使い方を間違えていると言おうとしたが、仁はそれをやめ、苦虫を噛み切った様な表情をみせた。
「害がないとはいえ勝手に入るなど言語道断。その不届き者の面を拝んでみたいものだな」
眉間に皺をつくりながら仁が言う。
「人の事言えるのかしら」
傍にいた百合子がボソリと呟く。亜伊子はわかっているのかどうか、曖昧に顔を動かしていた。
「や、でもほら、錯覚かもしんねえし」
何だか大事になりそうだと察し、慌てて取り繕う。だがその意見を聞く気は毛頭ないらしく、仁はそっぽを向いて口を開く。
「僕の光也に何かあったら大変だ」
「お・ま・え・はーッ!」
しれっとする仁に殴りかかろうとする光也を、百合子が苦笑しながら留める。
啀み合う二人の傍らで話を聞いていた瀬戸が、一つ提案を述べてきた。
「でしたら、私と原沢が交代で守り役をいたしましょう」
その言葉に原沢も頷く。その提案に、仁自身も加わると挙手するが、それだけは断ると光也に拒否された。
かくして始まった光也の就寝時間帯の見張りは一先ず一週間程続いた。瀬戸と原沢は日替わりで光也の部屋のドアを守り、日々の役目を忠実にこなしていた。だが、光也によるとそれでもたまに来る時があるらしい。そのうち仁が窓から侵入しているのではないかと疑われたが、仁は断固としてそれを否定した。
「光也、話がある」
一週間も最後になる頃、仁が光也の部屋にやってきた。
「この一週間みつが気付いた限りで、そいつが来た日を教えてくれ」
そこまで真剣になる事はないだろうにと思いながらも、光也は覚えている分だけを仁へと伝えた。仁はその日を書き取り、暫く呻ってから光也には何も言わずにその場を後にした。
「なんだあいつ」
そんな仁を、光也は不思議そうに見送った。
◆
眠っている光也に手を伸ばす。サラサラと流れる漆黒の髪に、暗闇に浮かぶ白い肌に。眠っている姿さえも愛おしく思え、自然と頬が緩む。こうして触れる事が許されないのは重々承知だった。それでも、先に“善だ”と本人の口から聞いてしまった時、どうしようもない気持ちになってしまった。不条理であるこの世に目を伏せる。そうである今が決して嫌な訳ではない。寧ろ光栄といっても過言ではない程だ。同時に本当は、不条理だとも思ってはいない。だが、違う形で出会えていれば、不偏でいることも出来ただろう。一度でもそう思ってしまうと、やるせない気持ちが僅かながら零れそうになる。
光也の哀愁漂う雰囲気も、仁に向けられたであろう笑顔も、全てが御身の安らぎとなった。いつの間にか、それほどまでに光也という存在が心の中で大きくなっていた。
幾度か光也に触れ、ため息をついた時、室内に灯りが照らされた。その僅かな灯りに一時体を強張らせ、彼は灯りの方へとゆっくり向き直る。
「やはりお前だったか、瀬戸」
灯りを手にし淡々とそう告げたのは、この家の王様と称される仁だった。その姿を目に捉えた瀬戸は、少し開きかけていた唇を固く閉じ、仁を見つめ返した。
「おかしいと思った。だから光也に確認をした。その人物が来る日と、お前達の見張り番の日を。比べてみたら直ぐに浮上したよ。やるなら徹底すればいいものを。そう言えば、守り役を買って出たのもお前だったな」
灯りをテーブルに置き、その脇の椅子に腰を掛ける。だがそれ以上は口を開こうとせず、瀬戸に話をするよう促していた。暫く黙秘していたが、仁の頑なさに諦めを感じ、静かに口を開いた。
「慶光様が、慶光様ではないと仰ったあの日から、今まで以上にこの方を見て参りました。初まりは、慶光様のお部屋の前を通った時です」
そうして瀬戸は静かに語りだした。
この時瀬戸は、最後の見回りとして各所を歩いていた。そして慶光の部屋の前を通った時、中から啜り泣くような声が聞こえたという。夜分に無礼とは思いつつも声を掛け中に入ると、光也が部屋の隅で膝をかかえ蹲っていた。瀬戸の存在に気付き、彼は零れ落ちる涙を必死に止めようとしていた。その姿があまりにも儚く脆く見え、瀬戸はそれを放っておく事ができなかった。
暫く光也に付き添い、そこで色んな話をしたという。
「そう、“光也”様ご自身の過去のお話も…」
ふと口許に笑みを浮かべる。
「仁様。“光也”様がお一人でいらっしゃる時をご覧になった事がありますか?」
瀬戸の問いかけに、仁は暫し考えてから首を横に振る。
「“光也”様は、お一人でいらっしゃる時の大半、ご自分の手の平で顔を覆っていらっしゃるのですよ」
その情景を思い浮かべる様に瀬戸の視線が空を見つめる。
涙を流しているのかそうでないのか、手の平が邪魔で確認はできなかった。ただ、何かを必死に耐える様なその姿を見る度、心苦しく感じていたのは確かだった。
「そんな“光也”様のお姿を見るうち…守ってさしあげたいと、心から思いました」
肩から力を抜き、一度瞳を伏せる。
そこには邪な気持ちさえもあるのかもしれない。仁が慶光を想うのと同じような気持ちが。だがそれは敢えて伏せておいた。仁に気付かれているかもしれないが、瀬戸はあくまでもこの家の家令にすぎない。
「しかし、その様なものは理由になりません。私は当家に仕える身。仁様のご友人に必要以上の干渉は不要なもの。許される事ではない…」
伏せていた瞳を開き、真っ直ぐに仁を見つめる。
「覚悟はできております。どの様な罰も、甘んじてお受け致します」
そうして瀬戸は静かに頭を下げる。
一時の過ちが、全てを崩壊する。未練がないと言えば嘘になるが、この時の瀬戸は諦め半分清々しさも少なからずもっていた。だからこそ、仁に心から頭を下げる事ができた。それでも、謝罪の言葉だけは口にしなかった。
長い沈黙が光也の部屋を凍りつける。罪人が刑を命じられるまでのカウントダウン。そうして数分が経った後、仁が判決の鐘を重く鳴らした。
「ならば、望み通り罰を与えてやろう」
冷ややかな口調で語り告げられる罰。だが、仁はそれまでの重苦しい表情を一変させ、瀬戸を見返した。
「話したという、光也の過去を教えてくれ」
思いもよらぬ言葉に、瀬戸は顔を上げる。仁が大切にしている人だ。そう簡単な処分ではないと思っていた為、驚きと戸惑いを隠せずにいた。
「…出て行けと、仰らないのですか?」
「出て行けと、言ってほしいのか?」
言いながら腰を上げ、ベッドサイドまで足を進める。瀬戸がしたのと同じように、それ以上の愛情をもって仁は手を伸ばした。
「勘違いはするな。光也を…光也を守りたいと思うのは僕も同じだ。でも僕は、光也の過去を知らない。教えてくれと光也に言えば、きっと光也は怒るのだろうな」
眠る光也の髪に触れながら酷く悲しそうな顔で仁が言う。
過去に触れ、その幸せや苦しみを分かち合いたい訳ではない。だが、触れたくないと言うのは完璧な虚言だ。だからこそ、自然とそういう話が出来ればいいと仁は思っていた。
「だが、僕より先にお前が知っているなんて、それもまた不愉快だ」
仁の表情が見る見るうちに不機嫌そのものになる。そして手を上げたかと思えば、手刀にしてそれを光也の頭に振り下ろした。
「仁様っ」
慌てて瀬戸が止めに入るが、手刀は額に直撃し、光也に呻り声をあげさせた。
「みつ、起きろ。お前を“慈しんでいた”正体がわかったぞ」
その言葉に瀬戸がギクリとする。ほんの少しの焦りが表情に出たのか、仁が瀬戸を見てニヤリとした。
仁の声が耳に入った光也は半目を開く。まだ睡魔の方が強いのか、きちんと仁達を見ているかどうかまではわからなかった。半覚醒状態な光也の視界に入るよう、仁が瀬戸の背を押し出した。
促された瀬戸は少しだけ戸惑った後、光也に対して深く頭を下げた。
「“光也”様…数々のご無礼、どうかお許し下さい」
頭を垂れた瀬戸を光也が捉える。そして手を伸ばし、瀬戸の頬に手を添えた。
「…瀬戸さん…だったんですか…オレは、嬉しかった…すよ…」
歯切れが悪いのは眠さが勝っているからだろう。そうして微笑んだかと思えば、光也は直ぐに眠りについてしまった。落ちかけた光也の手を取り、もう一度頭を下げる。
光也の笑顔を見ていたかった。この笑顔が永遠に続くのならば。想い恋うてその手を握りしめる。
と、繋がれた手を引き剥がすように仁が分け入ってきた。
「瀬戸、お前はもう下がれ。後は僕がついている」
光也のベッドに腰掛けた仁が、光也を見ながらも手先だけで瀬戸を追い払う仕草をした。瀬戸が罰はと問うと、仁はいらんと短く答えた。
「…お酒を飲まれている訳ではないのですから、ついていて差し上げなくても――」
よいのでは、と続けようとした瀬戸の言葉を、仁の鋭い眼光が押し留める。流石の瀬戸もそれ以上は口を挟まず、二人にお辞儀をしてドアへと向かった。
「光也は僕のだ」
瀬戸がドアを閉めるその瞬間、仁がそちらまで聞こえるような音量で言葉を紡いだ。忠告なのか威嚇なのかどちらとも捉えられる言葉を、瀬戸は聞こえない振りをして部屋を後にした。
◆
「みつ、光也、みーつーや、起きろ!」
昨晩と同じ様に、仁が光也に手刀をお見舞する。先より力強く振り下ろされたそれは、光也の額に赤い跡を残すほどだった。だが悪行として捉えられたのか、飛び起きた光也により手刀よりも強い痛手で返ってくる。ベッドに腰掛けていた仁と光也の頭が鈍い音を立ててぶつかり合った。
「いってえ!」
「痛いのは僕の方だ!」
二人で頭をさすり、可笑しな事だと互いに笑い合う。
「で、何でお前ここにいんの? やっぱお前だったんだろ――」
不法侵入と言おうとしたところで、また仁の手刀が飛ぶ。が、光也の頭に触れそうになるところでその手を開き頭をポンポンと叩いた。
「光也、昨夜の事を覚えているか?」
仁が問うた事は、光也の部屋に来ていた人物の正体が誰だか覚えているかという事でもあった。光也は呻りながら思考を巡らせたが、曖昧に覚えているだけで、誰だったかははっきり思い出せないという。そんな答えを出す光也に、仁は心底深いため息をついた。多少なれど、瀬戸に同情してしまう。
「なんだよそれ。いいだろ別に、悪じゃなかったんだろ」
眉を顰めて不機嫌そうに言いながら、光也はベッドから下りて着替えを始める。
「…僕にとっては最大の悪だ」
光也を視界に捉えてボソリと呟くが、当の本人には届いていないらしく、黙々と着替えをしていた。
仁はため息をついて立ち上がった。着替え終わった光也の肩に腕を回し、自身の体重をかける。
「光也、身の回りに気をつけたまえよ」
「常に気をつけてるよ、特にお前とかな」
「そんなに僕の事を気に掛けてくれているとは。僕も期待に添えた方がいいのだろうなあ、光也?」
「意味捉え違えてるだろ」
最早この手に慣れたのか、光也が呆れ顔で仁を見た。そして互いに笑い合う。
誰も彼の人を咎めやしない。咎められるはずがない。誰もがその様な想いを馳せているのだ。そして誰もがその気持ちが巡り巡って相手に届くようにと、祈っているのだから。単純に思えるが深く熱い想いを、止められるのは自分自身だけである。誰もがそう思い、日々を駆け巡る。
止める事をしないのもまた、一種の深い愛情であると―――。
2010.1.21
仁→光也←瀬戸、みたいな…。いいんだ、妄想全開なんだもの!光也総モテにしたくて、瀬戸ネタを書いてみたくて勢い任せに…書いたらなんか長い…。変態じゃないよ、片恋だよ^^