――光也、光也。
そう優しくオレの名前を呼ぶ声が聞こえる。一時的とはいえ過去を巡ったとき、何度となく呼んでくれた彼の声が、耳の奥までリアルに届く。寝ているはずなのにやけに鮮明に聞こえてきたそれに、オレはうっすらと瞼を持ち上げる。視界全体に緑が広がった。そこで初めておかしいと感じる。自室のベッドで眠っていたはずだ。外にいるのはおかしいと、オレはしっかりと目を開いた。そこには変わらず、緑が広がっている。ただ、どこか見覚えのある景色だった。
「光也」
名前を呼ばれてビクリと肩を揺らす。声の方を見れば、そこにはかつての友−−と呼んでいいのだろうか−−が、不思議そうにこちらを見ていた。不思議に思うのはこっちの方だ。おかしすぎる。今この時代に、この場所にいるはずのない人物が目の前にいる。
けれども、ふわりと頭に乗せられた掌がやけに優しく、オレの思考を困惑させる。
「光也?」
今一度名を呼ばれ、オレは手を伸ばして仁の手を握ってみる。暖かいその手が、どうにもリアルに思えてしまった。
夢、なのだろうか。夢だとしたら、どちらが夢なのだろう。緑溢れるこの地に佇み、仁に名を呼ばれたのが夢なのか。はたまた、自室で眠っていた方が夢なのか、今のオレには理解出来なかった。そして、もし触れられている事が夢なのならば、このまま覚めないでいて欲しいとすら思えた。
仁はふと笑みを見せ、手を握り返してくる。その温もりに、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
「どうした、光也。変だぞ」
皮肉ならがも笑う彼の表情が、その声が、オレの瞼の裏にノイズを呼ぶ。空は晴れているのに、目の前が霞みがかっているように見えた。
オレは言葉を発せずに、ただ首を横に振った。仁はその手を握ったまま、隣の椅子に腰掛けた。仁は手を放そうとしない。オレも、敢えて払う事はしなかった。この温もりに、幸せを感じ取っていた。
何をするでもなくその場に二人で座り、ただただ広がる青空を眺める。ふいに、オレの目頭が熱くなる。その熱さに驚きながらも空を眺め続けると、その空は徐々に雲が重なり赤黒く染まり始めた。変化を遂げる景色に、オレの心は酷く動揺した。慶が話してくれた、これより先の悲劇。惨劇とも呼べるだろうそれが、一気に脳裏を侵す。聞こえるはずのない爆音や機械の音、女子供の泣き叫ぶ声。目の前の色に、オレは思わず仁の手を力強く握り、頭を振る。
容赦ない吐き気と目眩が、オレの脳天を突き抜ける。それでも、実際に吐く事がなかったのは、仁の手が、暖かかったからだろうか。
「みつ、光也」
焦るような声がオレに向けられる。その声にすら、ノイズがかかる。誰か、このノイズを取り去ってくれ。そう願うも虚しく、耳に微かに残るのは、苦し紛れに叫ぶ人々の蚊の様な細々とした声だけだった。
仁が、いなくなる。オレが、いなくなる――。
仁には、何を言われてもごめんと返すことしかできない。そんな自分が悔しくて、悔しいと思ってしまう自分が嫌になる。ジィちゃんのせいで……否、ジィちゃんの為にこっちに来たのに、何一つ良くすることが出来ないまま向こうに帰ることになったらと思うと、なんともやりきれない気持ちになる。そもそも、帰れるかも分からないと言うのに。
それでも、ここに来たからには、恐れなど亡くして前に突き進みたい。誰が拒もうとも、誰が止めようとも、オレはそれを貫き通したい。そう思うことこそ、悪いことなのだろうか。
「光也、どうした?」
幾分か強い声で仁に呼ばれ、オレの意識は瞬時に解き放たれる。目の前には、最初と同じ様な青空が広がっていた。
「いや。……なんでもないよ」
仁は見ずに遠くを見ながら応えると、仁はそうかと言ってオレが視線を投げている方を見る。そこには、ただ一本の木が大空へと幹を伸ばしていた。
「なあ、仁」
「なんだい?」
仁がこちらを見る気配はない。
「あの木の天辺まで登ってさ、足を滑らせたらやっぱり――」
言いかけたところで、横から伸びてきた仁の手のひらに口を塞がれた。仁の方を向くと、仁は伸ばしていない方の手の人差し指を立て、口元に静かに持っていった。静かに、と言う行動なのかと思った。けれども、それ以上縁起でもない事を言うなという仕草なのかもしれない。その表情から怒りは読みとれなかったが、僅かに眉間の皺が寄っている事に気付いた。
「ごめん……」
口を塞がれたまま謝る。少しくぐもっていたけれど、仁には聞こえただろうか。仁はゆっくりオレの口元から手を外すと、不安になると声を出した。
「光也、僕は……僕は、時々不安になるよ」
何が不安なんだと返すと、仁はひとつため息をした。
「たまに光也の、影が見えなくなる事がある」
突拍子もない事を言われた。けれどそれに対して、どう応えればいいのかがわからない。とりあえず自分の影を探してみる。太陽とは反対側にオレの影は伸びている。それを仁に教えると、仁はあるねと言うだけで、虚ろな眼差しは相変わらずだった。
「見えなくなる事がある度、お前がどこかへ行ってしまうんじゃないかと不安になる」
そうしてようやく、オレの方を見る。
影が無くなれば、その人自身が嘘の存在になると思っているのだろうか。おとぎ話じゃあるまいしと馬鹿にしようと思ったけれどやめた。仁は――仁がそうして真剣に悩むなら、オレは手を差し伸べたい。結果が悪いことになるんだとしても、せめてその瞬間だけでも幸福へと導きたい。
「オレの影、踏んでればいいじゃん」
影を指さして言うと、仁がきょとんとする。それから悲しそうに、それでも微笑んでそうだなと呟く。そうして立ち上がり、一歩足を踏み出してオレの影を踏んだ。そのまま両手を伸ばし、オレを静かに包み込む。
拒むべき時は、仁が光也と言うオレの存在を意識していない時だけ。今は、それを黙って受け止めた。
「光也、どこにも行かないと、約束してくれるか?」
仁の問い掛けに、オレは眉を寄せる。そんな約束は出来ない。だってオレは、本来ここの住人ではない。ここに居る存在は慶光であって、オレではない。仁にそう言えば、仁は苦しむだろうか。
問い掛けには応じず、仁の背中をぽんぽんと叩く。
約束は出来ないけれど、その時が来るまでは傍に居れる。
「光、雪が降ったらまたここに来よう。きっと凄いものが見れる」
そう言う仁は、今度こそ心の底から微笑んでいた。そして数秒もしないうちに、その笑顔はオレの視界から霞み薄れていく。いなくなるのは、お前の方じゃん。消え行く仁の笑顔にそう訴え掛けるも、それは虚しく空を舞うのみだった。
そしてじっとりと汗をかきながらも、意識ははっきりと、目が覚めた。
「夢かよ……」
温もりの方が夢だった。その現実に悪態をつき、嘆息する。
仁は、幸福でいれただろうか。あの惨劇に見舞われる事がなくとも、それでも世界は回っている。オレが言った事を、守ってくれていただろうか。雪が降ったら、その時を一緒に迎えていたら、もっと幸福でいれたのだろうか。
けれど、次に雪が降る頃、オレたちに待ち受ける事がどんなに惨い事か、その時のオレたちには到底予測もつかなかった。もちろん、オレの存在はその時そこにはない。せめてジィちゃんが初めに言っていてくれていれば、運命に逆らい、罪をも被って仁を連れ遠くへ逃げることが出来ただろう。でもそんな事、無意味だとはわかっている。
今にして思えば、雪が降る季節なんて来なければ良かったんだと皮肉を言うことすら出来たのに――。
「仁、凄いものって何だよ……」
頬に、自然と涙が伝う。
最後のあの時期は、雪の降る季節だった。オレも仁も、再び連なってあの場所を訪れる事はなかった。それどころではなかったのは確かだ。けれども、もし ――もしあの時、あの騒動がなければ、仁はオレの手を引き、あの場所に連れて行ってくれていただろうか。それとも、どのみちもうそこにオレの存在はなかったのだろうか。
仮説を並べても、もうあの時あの瞬間に戻れる事はない。どんなに願っても、思い通りの奇跡は起きない。
「仁の声が聞きたい」
他の誰でもない、仁の声を、想いをここに届けてほしい。
溢れ出る涙を拭う事もせず、オレはただ頭を抱え続けた。
――みつや、泣くな。
ふわりと、暖かい手が頭に触れた気がして顔を上げる。目の前にあるのは、白い壁のみ。悲しみを残すくらいなら、そんな耳障りな音を残さないでほしい。そこまで思い、嘘だよと呟く。どんなに霞がかっていてもいい。傍に居たかった、居てほしかった。その想いだけが、心に残る。
何もかもが残酷だと思えた。オレだけがここにいること。仁も、慶も、百合子も亜伊子も慶光もいない。あの温もりと共に過ごした人々の中で、オレだけが取り残されている。悲観的になるのは好きじゃないのに、こればかりはどうしようもなかった。
ふいに、携帯が高らかに音を響かせる。手を伸ばす気分じゃないとそのままにしたが、音が鳴り止む気配は一向にない。オレは暫く躊躇った後、携帯を取り上げ通話ボタンを押した。
『こんにちは、光也さん』
その声に、思わず仁の名を言いそうになった。のど元まで出掛けた名を押し止め、嘆息する。
『光也さん、散歩行きましょう。今、家の前まで来てます』
亜伊子の――。
「強引だな……わかった、今行くよ」
気は乗らなかった。でも、声に乗せられた。あいつには失礼かもしれないけど、その声で誘われると、断れる気がしない。オレはもそもそと着替えをし、手早く顔を洗ってから表に出た。生方が、笑顔でそこに立っていた。
「光也さん、髪ぼさぼさですね」
――光也、髪がぼさぼさだ。
「うるさいよ」
ノイズはいらない。ノイズなんか、消え去ってしまえ。
こっちですと、そのまま手を引かれてオレは重苦しい足を動かした。雪がちらちらと、花びらの様に辺りを静かに舞う。
「わざわざ雪の日に連れ出さなくてもいいだろう?」
前を行く生方にそう言うと、彼は雪の日じゃないとダメなんですと力強く言った。それに気付かれない程度のため息をし、また引かれるままに足を動かす。どこに行くのだろうか。どうせなら、このまま仁のところにでも連れてってくれないだろうか。そう思って思わず笑みがこぼれる。出来る訳がない。阿呆かと自分を叱咤する。
「光也さん、そろそろ目を瞑って歩いて下さい。ちゃんと手を引きますから」
「めんどくせえなあ」
言いながらも、オレは自然と目を瞑る。本当に、ちゃんと手を引いてろよと願いながら。少しだけ歩調を緩めた生方に手を引かれ、オレは目の前が見えない恐怖を感じながら歩みを進める。手の温もりはあるのに、まだ開けないで下さいねと言う声が、酷く遠く感じる。
ふと、生方が動きを止めた。振り返る気配に目を開けようとしたところで、彼に両手で目を塞がれた。
「おい、なんだよ」
「心の準備はいいですか?」
何があるかもわからないのに準備はいいかはないだろうと思いながら、オレはゆっくりと頷いた。そして静かに、彼の手がオレの顔から取り除かれる。同時に開いた瞳に、光の眩しさが注がれた。きらびやかに光るそれに耐えれず、一度目を閉じる。そうしてまた、ゆるりと瞼を持ち上げる。
声にならなかった。言葉に出来なかった。その景色に、意識を持って行かれた。
「樹氷って言うんです。曾祖母が教えてくれました。曾祖母は、お兄さんに教えてもらったと言ってましたよ」
樹氷くらい知っていると、言いたかったが言えなかった。声が出なかった。
その場所は、つい先ほど夢で見た、且つて訪れた事のある場所だった。夢では緑溢れていたが、今は閑散としている。それでも、大きく聳え立つその木が、透き通るように輝く氷を身に纏い、ただひたすらにオレと生方を見下ろしている。
「これ……だったのか?」
仁、お前が言う凄いものは、これの事だったのか。
「光也さん。奇跡は、起こるんですよ」
その言葉にハッとして振り返る。生方は、相変わらず笑顔でいた。
心を見透かされた気がした。瞬時に、残酷だと思っていた感情が溶け出して行く。
――凄いだろう。綺麗だろう、光也。
どこからともなく聞こえるその声に頷き、オレは再びその木を見上げる。
「一緒に見たかった……」
ぼそりと呟く。それとも、今、傍に居てくれているのだろうか。一緒に見れているのだろうか。
「今飲み物買って来ますね。光也さん、そこで一息いれましょう」
一方的に言い、彼は素早くどこかに飛んで行った。
オレはゆっくりとその木に近づき、その幹に手を触れる。酷い冷たさに身震いをしそうになった。それでも構わず、オレは額を押し付けた。冷たさが、頭から全身に隈無く行き渡る。
「仁……有難う。それ以上は……言葉にならねえよ」
また一粒、涙が零れた。それでも心は晴々としていた。ノイズなんかいらない。ノイズをかけていたのは彼の声ではない、オレの心の方だった。その事に漸く気付いた事を、申し訳ないと思う。本当はわかっていた。オレが手渡した黒のナイトが、また再びオレの手元に戻って来たときからわかっていた。
幸福で居る事は難しい。それでも小さな幸せがあれば、それだけで心豊かになる事もある。
「光也さーん! ココアでも、いいですかー?」
遠くから生方の声が響く。オレは涙を拭い、振り返った。両手を上げ、大きな丸を作ってやると、遠目でも分かる程彼は微笑んでこちらに駆けて来た。買ってから聞くなと突っ込みそうになったが止めておいた。
今一度、大きな幹を振り返る。そこに、仁が佇んでいる様な気がした。そっと微笑み、踵を返す。
もう後ろを振り返りはしない。反芻する事くらいは許されるだろう。それだけにして、悔やむ事はもうしない。卑下する事も、不幸だと思う事もやめた。
凍てつく寒さを今更ながら感じつつ、オレは静かにその場を離れた。
次にやってくる季節は春だ。春になったら、今度はオレから誘ってやろう。
それから生方と休憩している時、あの木の天辺まで登って――と、仁にした質問と同じ事を彼に聞いてみた。
「受け止めてみせます!」
自信に満ちあふれた笑顔で生方がそう言った。
オレは、苦笑するほかなかった。
2010.7.10
仁光+生方。色々突っ込み所は多いけどスルーで。