一生の不安事

 カーテンの隙間から朝日が差し込む。それに手を翳し、遮るようにしながら起き上がった。目を擦りながら時計を見ると、針は10時過ぎをさしている。朝日どころではないと慌てて立ち上がるが、今日が休みな事を思い出して、嘆息する。少しだけ気だるい体を伸び縮みさせ、それからリビングへ向かった。既に空いていたドアから入ると、藤堂がリビングにも置いているパソコンへ目を向けていた。
「おはよう…」
 なんとも情けない声だ。少しだけ嗄れてる気もする。それでも俺の声を聞いた藤堂は、此方を向いて同じように朝の挨拶を返してくれた。
「ごめん…寝過ごした」
 顎を引いて俯き加減で言うと、藤堂は口端を吊り上げて笑った。
「たまにはいんじゃねえの。どうせ今日は休みなんだろ」
 藤堂の珍しいとも思える言葉に素直に頷くと、俺は再度目を擦った。そのまま洗面所まで向かい、鏡を前にして改めて自分を見る。普段より髪の毛がぼさぼさになっていて、これで藤堂の前に出たのかと思うと、これが初めてじゃないと思っても少しだけ気恥ずかしくなった。
 顔を洗う為にタオルを準備して水を出す。少し視線をずらしたところに、二つのコップと二つの歯ブラシが並んでいた。お互い使いやすいのを選んだからお揃いという訳ではないが、こうして並んであるのが嬉しかった。同時に、少しだけ不思議にも思えた。それでもその不思議はそのままにしておこうと思う。これからずっと、こうしていられるようにと願いながら。

    ◆

「仕事…?」
 顔を洗ってすっきりした俺は、リビングに戻って藤堂がむかっている液晶のモニターを覗き込んでみた。そこには、訳の解らない表や難しそうな言葉・文章がつらつらとならんでいた。
「いや、ただの株だ」
「ただのって…」
 藤堂はそんな事しなくても稼げるはずだ。そう思って必要ないんじゃないのかと問うてみるが、遊び程度だと直ぐに返された。
「おまえもやってみるか? 嵌るとやめらんないぜ?」
 くると思った。藤堂のする事に興味は持つが、やろうとまで思った事はなかった。
「いや、いいよ。難しそうだし」
 ため息混じりに苦笑すると、藤堂は目を細めて笑った。
「まあ、お前にとって夢中なのは、俺だもんな」
 ご尤もなので、返答はしない。そもそもその相手に言われると、確信が更に深まって恥かしくなってくる。俺は藤堂から目だけを背けるようにした。そんな俺にまた小さく笑うと、藤堂は手を伸ばして俺の顎をとった。力を込められ、少しだけ引かれる。「俺も…」と呟くように言われ、次いで口端が吊り上った。
「株よりお前とのセックスの方が嵌るしな」
「なっ」
 甘い吐息のようにセリフを吐く。俺は慌ててその手を振り払った。
 明るいうちからよく露骨な表現を使うものだ。それに一々赤くなってる俺も俺だ。藤堂がこういう性格だと知っていながら、油断していた。
 彼に背を向け、頬の熱りを手の平でパタパタと冷ましながらテーブルの所まで進んだ。
「言っとくが、セックスだけが大事って訳じゃねえぞ」
 藤堂は人差し指を俺に向け、その言葉を付け加えると、またモニターに視線を戻した。
 言葉にしないと分からないとでも思われているんだろうか。それはまあ藤堂の性格からして直接言ってもらわないと分からない事もあったけれど、それはもう昔のことだ。気遣いかどうかも分からないけれど、そう言ってくれた藤堂に、俺は小さく“知ってるよ”と呟き返した。
 特にお腹が空いていたわけでもなかったので、とりあえずいつも休日にしていることをする事にした。洗濯やら掃除やらだ。一先ず洗面所に戻って洗濯機を見てみると、中には既に洗い終わった服が入っていた。ランプもチカチカ光っていて、どうやら俺が顔を洗う前に終わっていたらしい。洗濯物をカゴに移し、ベランダまで持っていく。
「晴れてよかった」
 空を仰ぎ見、一人ごちて干し始める。二人分な上に男同士なので、干すものはそう多くはなかった。おまけに気分が良い。鼻歌でも歌ってしまいそうなほどな気持ちのよさに頬が緩む。それでも、その微笑みも、部屋の中でパソコンのモニターに顔を向けている藤堂を見ると崩れてしまう。パソコンに嫉妬とかしている訳ではない。そんな事は絶対にありえない。
 あるとすれば…。
 そう思考をめぐらせたところで、藤堂に名前を呼ばれた。何事かとベランダから部屋へ顔を出すと、藤堂はテーブルの横に置いてあるカゴを顎で指し示した。
「ついでだ、そこの洗濯物も干しといてくれ」
 そして直ぐに顔をパソコンの方へと向きなおる。
 そう、あるとすれば…。
 今藤堂がやっているのが、株だけじゃない事を俺は知っている。俺の目に入らないように窓は閉じているが、仕事をしていて、骨休め程度に株をやっていたんだと言う事も。だから今更ながら、先ほど『仕事?』と問うたのに少し罪悪感を覚える。かといって謝るわけでもないが。
 徹夜だったのだろう、時折眼鏡を外して目を伏せ、眉間を押さえ込む。辛いなら少しでも眠ればいいのにと思いつつも、そんな無責任な言葉、俺には掛ける事ができない。
 やれやれと肩を落とし、カゴの前まで移動する。ベランダが直ぐそこだったので、出て干すのに面倒な事はなかった。
「藤堂。いつまでも俺がいると思ってたら、何も進まないよ。少しは自分でやる事も覚えないと…」
 カゴを持ち上げながら自然と出てしまった言葉にハッとし、口元を手の平で覆い、口を噤んだ。
 眉間を労わるように揉んでいた手を止め、藤堂はそのまま鋭い視線を向けてくる。
 俺は自分がどんな表情をしていたか解らない。それでも藤堂の目が厳しくなった事に、少し強張りを覚えた。同時に、そう言った事を後悔した。
 外していた眼鏡を掛け直し、体全体を此方に向けてくる。足を組んで座っているその態度は堂々としていて、やけに威圧感があった。
 藤堂は誰が相手でもでかい態度をしているが、時折見せる優しさには誰もが惚れてしまうような魅力がある。それを馴染みの修平や森本、栗栖に言うと『そんな優しい藤堂なんて見たことがない』と返される。と言う事は、俺にだけ見せてくれている優しさがあると言うことだ。その時はそう考え、自然と頬が緩むのを感じていた。
 だが、今のは違う。その優しさの欠片もない冷たい表情をしてしまっている。俺が、そんな顔にさせてしまった。
「ごめ、ん」
 知らず知らず体が後退していた。気づけば藤堂も立ち上がり、俺の直ぐ目の前まできていた。
「何が?」
 低く響くその声に、思わず体が反応する。持っていたカゴを落としてしまい、下から鈍い音が聞えた。落ちた場所が足の爪先より離れた所でよかった。プラスチックのカゴだから、爪先に落ちていれば確実に涙していたんだろうと思う。
 そんな安堵の思考も束の間、藤堂は俺の片腕を、後ろにあるガラス張りの窓へと圧しとめていた。藤堂が自分の足でカゴを横に蹴る。そのまま前のめりになるようにし、ギリギリと徐々に力がこめられる。苦痛に眉をひそめる。
「藤堂っ…いた」
「お前が痛くなるような事言うからだろ」
 間入れずに言葉を被せてくる。
「でも…本当に、いつかは…」
「俺の方が先かもしれないだろ」
 そう言われ、少しだけ考え込む。普段の和やかな状況なら“藤堂みたいなタフな奴、そう簡単には死なないよ”と軽く笑い飛ばせる。この場所にあのメンバーがいても同じ事を言うだろう。でも本当は、そんな事は考えたくもない。自分より先に逝かれるのなんてごめんだ。
 思って反論しようと口を開けば、急に掴まれた腕が解かれ、そのまま俺の肩に藤堂が顔を埋めてきた。呆気にとられ、言葉がでない。
「…頼むから…そういう事はもう二度と言うな」
 振り絞るように小さい声が聞える。静かな吐息が、服の上から鎖骨あたりを撫でた。こんな藤堂を見たのは、始めてかもしれない。あの時あの島での出来事の時も、ここまで弱った藤堂は見なかった。
 途端に込み上げてくる熱い感情を、俺は何とか抑えた。目から溢れそうになる涙も、嗚咽しそうになる声も、全てを抑えた。代わりに、藤堂の背中に腕を回し、精一杯の力で抱きしめた。少しだけ震える体。それでも想いは伝わるはずだ。
 一生の不安事と、一生の願い事と、お互い同じ事を思って考えていれば、それだけで同じ時を過ごせると思った。

2007.1.1