※No.01 → side T
いつものようにのんびりとした休日。いや、今のは嘘だ。久しぶりに落ち着いていられる休日がやってきた。今は丁度昼飯時。赤井が作った飯を二人で食いながらテレビを見ていた。
番組の内容はニュース。身近で起こっている事件や事故のニュースや、どうでもいいような特集が組み込まれた内容だった。
『今回の特集は“浮気について”です』
明るい女性アナウンサーの声が部屋中に響く。さして音を大きくしているわけではないが、室内が静かな為、自然とそう聞こえるのだろう。
『街頭で調査をしたのは此方。“彼氏・彼女の携帯を盗み見した事があるか”です』
赤井も俺も、飯は既に食べ終わっていて、二人して茶をすすっていた。赤井は興味があるのかどうか、テレビへと釘付けになっていた。
……浮気。
頭で思い浮かべても、いまいちパッとはしない言葉だった。
と同時に、俺はいつから男が好きになったんだろうという疑問も芽生えた。
『……と言うわけで調査の末、付き合っている中で、3人に1人は相手の携帯を盗み見した事がある、という結果になりました。テレビの前の皆様はいかがでしょうか?』
そう言って、アナウンサーがスタジオへとカメラを戻す。
「いかがでしょうか」
ふいに声がしたので赤井の方を見てみる。湯飲み茶碗を両手で握りしめ、俺へと視線をよこす。
「……愚問だな」
少し間をおいてから答える。
本当に愚問だった。赤井の携帯の中身なんて気にした事がなかった。自信があったと言えば惚気や自慢にしか聞こえないかも知れないが、入ってるとしてもせいぜい家族と仲間内くらいだろうと思っていたからだ。
視線だけで赤井にも問うて見る。察したのか、一言「愚問」とだけ言った。
そこで会話は終了し、食事の後片付けへと入った。俺は特に何もする事がなく、そのままテレビでニュースを見ていた。そこで赤井が「あ」と声をあげる。
なんだとキッチンの方を見れば、赤井は少し目を泳がせながら口を開いた。
「でも……見せてくれるなら……見たいかも、なんて……」
どうやら会話は終わってなかったらしい。赤井はどちらかというと強気で自分の意志も大切にする奴だが、多少女々しい部分もある。だから女同様気になるのかとも思ってやる事にした。
俺は携帯を二つ持っている。仕事用とプライベート用。特別な相手以外、入ってる内容はそう変わりはしない。だが、仕事用の方だけは、見せるわけにはいかなかった。
「仕事用のじゃなきゃ、好きに見ればいい」
「え……」
「えって何だ。お前が見たいって言ったんだろ」
自分で言っておいて何驚いてるんだと突っ込んでやった。赤井は頷くと、片付けを中止し、此方へとやってきた。改めてイスに座る赤井に、俺はプライベート用の携帯を出した。赤井はそれを受け取り、少し目を輝かせながら携帯を開いていた。
一通り見終えたのか、携帯を閉じておずおずと返してくる。
「収穫は?」
「ありませんでした」
携帯を押し返した手をそのままテーブルにつけ、赤井は頭を下げた。内心笑ったのは内緒だった。もちろん皮肉とかあざ笑う意味ではなく、だ。
※No.02 → side A
「ありませんでした」
そう言って、携帯を押し返したまま頭を下げる。疑っていた訳ではないが、やはり言われると気になってしかたがない。こういう女々しいような部分はない方がいいとは思っていても、藤堂の事となると、どうにも上手く制御ができない。
そしてもう一つ気になる事。頭を下げたまま少し考える。
“仕事用のじゃなきゃ、好きに見ればいい”
彼はそう言ってプライベート用のを見せてくれた。なら、仕事用は?
そりゃ藤堂にだってプライベートってものがある。仕事は俺には関係ないし、見せたくないという気持ちもわからなくはないが……。もしかして、仕事用の方に何か特別に登録されているのがあるんだろうか。自然と考えはそっちの方へといってしまった。
言って、見せてくれるだろうかノいや、先ほど“仕事用じゃなきゃ”と言われたから、きっと見せてはくれない。
「どうした」
俺がいつまでも頭を上げないでいると、藤堂は俺の頭をポンポンと軽く叩いてきた。その彼の手が優しくて、逆に顔を上げづらくなってしまう。
申し訳程度にその手を取り、指先に軽く口付けをする。それを何度か繰り返すと、今度はその手で顎を捉えられた。藤堂の親指が俺の唇を割り、歯の先にある舌を擦ってくる。特に意識する事もなくその指に吸い付くよう舌と唇に力を入れると、藤堂はテーブルに片膝を乗せて俺の顔を引き上げた。
咄嗟の事に、軽く腰を浮かせてテーブルに手をつくと、そのまま藤堂にキスをされた。
「誘ってんのか?」
一度合わせた唇を離し、互いの息が混ざり合う至近距離で藤堂が呟く。
「ちが……藤堂、行儀悪い」
「関係ねえよ」
そう言い放ちまた直ぐに唇を重ねてきた。
関係なくはないと思いながらも、唇を重ねてこられてはもう手も足も出ない。洗い物がまだ終わってないとか、まだ真っ昼間だとか、そういう事もどうでもいいと頭の隅に追いやられていた。
「こことベッド、どっちがいい」
あまり意味のない選択肢だなという考えが過ぎったが、俺は既に荒くなった息を必死に抑え込みながら、ベッドと答えた。
◆
されるがままで二時間ほど藤堂に身体を預け、まだ昼間なのに疲れてしまった肢体をだらしなく投げ出していた時、藤堂の仕事用携帯に電話が入った。どうやら取引先の社長が急に訪問してくるとの事で、急遽会社へ向かわなくてはならなくなったのだ。
通話を切って机にソレを放り投げた藤堂は「こういう時の為の代理社長も作っておくか」とふざけた事を言いながら着替えをしていた。そして軽く身なりを整え、直ぐ戻ると一言だけ付け加えて部屋を後にした。
藤堂を見送りまたベッドに横たわると、足下の方にくるまっていた布団を引き寄せ、今度は別の安らぎを求めてゆっくりと目を閉じた。
※No.03 → side A
次に目を覚ましたのは、午後三時前だった。あまり眠れなかったと思いながら寝起きの覚束ない足取りでリビングへ向かい、冷蔵庫にあるミネラルウォーターを手に取った。冷えた水で喉を潤しながらリビングを見渡すと、テーブルの上に一つの携帯電話が置いてあるのが見えた。自分のものではない事は目に映っただけでわかった。
「携帯忘れてってるよ……」
藤堂の携帯は、プライベート用も仕事用も同じ機種のモノだ。パッと見同じモノだから、どちらがどちらとは見分けがつかないモノだ。けど、その携帯を持ち上げた俺はとある事に気づいた。
昼に見せてもらった時、携帯の側面にこのメ赤い小さな傷のようなものモがあっただろうか。
何とかその時の事を思い出そうと、携帯を持ったまま唸ってみる。何度唸っても、やはりこの傷はなかったはずだ。よくよくその傷を見ると、今し方慌てて付けた様には思えないものだった。藤堂は、この傷でどちらかを判別している。
そう思った時、俺は二つ折りのその携帯を、自然と開いてしまっていた。
完全に開かれた時の小さな音で我に返り、慌てて閉じ直す。人のを、たとえ藤堂のだとしても、勝手に覗き見をするような真似はよくない。思っていても、なかなか自分の手からそれを放せないでいた。
暫くそのまま佇んでいたが、俺は意を決して、それでも心の中で謝罪をしながら再び携帯を開いた。
機能はプライベート用と一緒だ。手早くアドレス帳を開き、上から順に文字を追っていく。そしてその中に、一つだけ引っかかる名前を見つけてしまった。
――ブラック。
藤堂の知り合いにこんな名前の人がいただろうかと考えてみるが、はっきりとは思い当たらない。仕事用だから、俺が会った事のない人かも知れないが、名前にブラックが付くなどそうそういないはずだ。けど、俺はもう一つだけその名に相応しい人物を知っている。
携帯を持つ手が微かに震えだす。そして、自分でも気づかぬ間に、通話ボタンを押し、耳に押し当てていた。
呼び出しのコールが三回鳴った後機械的にプツリと切れ、相手が少し間をおいて声を出した。
『……なんだ、何の用だ』
電話の主の、その一言だけで体が凍り付いてしまった。耳の奥まで届くずっしりとした低い男の声。俺はその声を知っていた。嫌でも思い出してしまう。瞬時にあの島での一件の出来事が頭を駆けめぐった。声の主は、そこで出会ってしまったブラックと呼ばれていた男のものだ。藤堂の兄から依頼を受け、藤堂の命を狙っていた男の声。
『おい』
また一度発せられた声に、思わず通話を切ってしまった。
何を考えるよりも先に、まず発信履歴を消した。その勢いのまま素早く携帯を畳み、テーブルの上に置く。額に嫌な汗をかいていた。
何故、何故藤堂の携帯にこの男の番号が登録されているのか、必死になって答えを探した。まだ命を狙われているのか。だがそれならこちら側が登録している事はまずないはずだ。ならば何故。 両手で顔を覆い、唇を噛みしめた。
残る選択肢は一つ――藤堂が、この男に依頼をする側という形だ。
何の為に。答えが見つかれば、更なる疑問が生まれる。俺はこの男の職業と言うものがどんなものか知っている。それこそが、藤堂の命を狙ってきたものなのだ。
何故。藤堂はいったいこの男に何を依頼しているのか。メ何をモと言う言葉など、この男にしてみれば愚問なのかもしれない。それでも、そうでないと信じたかった。
項垂れていると、今度は自分の携帯が鳴り出した。突然の音に体をビクッと震わせたが、少しだけ躊躇したあと、携帯を手に取った。躊躇した理由は、画面に映された名前が藤堂だったからだ。
「はい……」
声が震えていないかだけが心配だった。
『なんだ、はいって』
いきなり指摘されてしまい、言葉に詰まる。だがさして気にする風でもなく、藤堂は言葉を続けた。
『悪いが、部屋かリビングに携帯を忘れてきたみたいなんだ、ちょっと見てくれるか』
「あ、うん」
この場にあった藤堂のメ仕事用モである携帯を手に持ち、藤堂が使っている仕事部屋へと向かった。
「これか。あったよ」
さもその部屋にあったかの様に、手に持っていたその携帯を持ち上げる。なるべく、不自然にとられない様に答えた。
『そうか。加えて悪いんだが、それをこっちまで持ってきてもらえるか?』
あれだけ見られるのを嫌がっていたのに、敢えてその事には触れない様に藤堂が聞く。会社まで持っていけばいいのかと問うと、藤堂は会社の近くにあるカフェを指定した。ついでにそこでお茶でもどうだとも。
俺は二言返事をし、すぐ向かうとだけ告げて電話を切った。
大分急いで指定のカフェまで足を運んだが、やはり会社近くだった為か、藤堂の方が先に来ていた。こういったカフェに入るといつも奥の席を陣取るのに、今回は扉に近く直ぐに見つける事が出来た。どうやら店内は3時という時間帯もあってか、賑わいをみせていた。だから奥の席がとれなかったのだろう。
遅くなった事に詫びながら席に着く。テーブルの上にある灰皿には、既に何本かの吸い殻があった。
――吸い殻、煙草……そう言えばアイツも煙草を吸っていた。
「どうした」
席に着いたのに詫び以外一言も発しないで灰皿を凝視していた俺に、藤堂が声を掛けてきた。何でもないと首を横に振り、やってきたウエイターにコーヒーを注文する。
そういう素振りを見せてはダメだ。自分に言い聞かせながら、俺は平然を装って鞄から藤堂の携帯電話を取り出した。何か聞かれるかもしれないと思っていたが、藤堂は余計な口は挟まず、ただ「悪いな、サンキュ」とだけ言った。
それからも藤堂はごく普通の話しかしなかった。俺自身も、なるべくと携帯の事を頭の隅に追いやって藤堂との会話を楽しんだ。
※No.04 → side T
午後四時。喫茶店でもう少しここにいると言う赤井と別れ、俺はまた社に戻ってきた。赤井とたわいない話をしている所に、また呼び出しの電話が入った。別の社の社長が挨拶に来るとの事だった。喫茶店と会社がそう離れていない為、時間に余裕はあったが赤井に促されてそこを出ざるを得なかった。
社に戻ると、エレベータの前に電話をかけてきた主がいた。目が合うなり頭を下げ、手に持っていた資料を寄こしてくる。
「すみません社長、折角の休日なのに……」
相手は少しだけ恐縮して謝りをいれてきた。何もお前が謝る事でもないだろうとは思っていたが、俺はとりあえずちょっとした憂さ晴らしに遊んでみる事にした。
「まったくだ。お前、今度社長代理やれよ」
無論返ってくる答えはわかっていた。だが、その折角の休日を潰されたんだ、これ位の茶化しは軽いもんだろう。そう思って見れば、そいつは「とんでもない!」と声を荒げた。
「無理ですよ。無理です」
「だよな」
案の定、答えはおふざけではなく真面目に返ってきた。真面目に返されると此方としても罰が悪い。謝る気はさらさらないが、持っていた資料でそいつの頭をポンポン叩いてみた。そいつは一瞬驚いて体を固めたが、直ぐに悪い事をして母親に叱られた子供のように縮こまってしまった。
到着したエレベータに乗り込み、時間の確認をする。どうやら先方は、此方に向かっている途中で電話をかけてきたらしく、あと10分ほどで着くとの事だった。やれやれとため息をついて社長室に戻る。持っていた資料をデスクの上へ放り投げ、窓から外を眺める。ここからでは先ほどの喫茶店は見えない。丁度隣のビルがその邪魔をしている。見えない赤井を想いながら、もう一度ため息をつき、頭を仕事モードに切り換えてデスクについた。
◆
挨拶兼ねての対談も終わり、先方さんが室内から出た途端、仕事用の携帯がけたたましい音を立てて鳴りだした。この時を狙ったかの様なその音にうんざりしながら液晶を覗く。そこには、なるべく相手にしたくないヤツの名前が表示された。
どうするかと10秒ほど悩んだが、一向に鳴りやまないその音を遮断したく、俺は仕方なしに通話ボタンを押した。
「はい?」
ネクタイを少し緩めながら相手の声に耳を傾ける。電話越しに『俺だ』と言う声が聞こえてきた。思わずどこの俺様だと答えそうになったが、すんでの所で押し止めた。なるべくなら相手にしたくないヤツ。それは過去一度、俺を殺そうとしたヤツの声。
『さっきのは何だ』
「さっき?」
わざと機嫌悪そうな口調でそれを復唱する。俺には、さっきと言う覚えがなかった。
『とぼけるな。さっき電話をしてきて、用件も言わずに切ったろう』
すぐに思考を巡らせてみる。俺はこいつに電話はしていない。少なくともここ最近は一切かけてなどいない。と言う事は、この携帯を持ってきた赤井だけにそれが可能となる。
見たのかと思いながらも、とりあえずは電話に集中する。
「ああ、悪い。親父が急に来たんでな、出てるとは思わず切っちまった」
黒河はフンと鼻で笑い飛ばした。悟られたかと思ったが、どうやらそうでもないようだ。
『で、何の用だ』
「いや、あの件のあと、遺族はどうしてるかと思ってね」
『お前が気にするまでもないだろう。あれは間接的とは言え、あいつらが企んだものだ。それを遠回しにお前に寄越し、俺に依頼した。それだけだ』
俺に寄越したんじゃなく兄貴にだろうが。毒突きたい気持ちを必死に堪える。あの件とは、あまり思い出したくもない一件。本来は兄貴に来た依頼だったが、電話だけを無理矢理押しつけられ嫌々とはいえ掛けてしまった以上、間接的にであっても関わっているのは事実だ。兄貴がこいつの電話番号を律儀に残しておいたのが運の尽きだったのかもしれない。
「まあ、その通りだ。一応、念のためな」
人間としての偽善であるかもしれないが、そう言うと黒河は「よく言う」とまた笑い飛ばしてきた。
『一つだけ質問させてもらおう』
この男が質問する事は珍しかった。あまり聞きたくはなかったが、有無を言わせないその気迫に、せめて手短に終わらせようと俺は聞き返した。
『先の電話、本当にメお前モが掛けたのか?』
やはり悟られていたか。そうは思ったが、敢えて焦る事もせず、そうだとだけ答えた。
『……フン、まあいい』
そうしてその電話は一方的に切れた。
一つため息をおとす。この男とのやり取りは疲れる。以前は明らかに殺意あっての気迫があったが、今はそれがない。とは言え、変わらないその声には、やはり多少臆する所がある。
だが、今の問題は赤井の方だ。
喫茶店で会い話をした時、赤井に変わった様子は見受けられなかった。その時に敢えて仕事用の携帯だと言わなかったのも、悪いとは思いつつも赤井を試していたからだったが……。
持っていた携帯の発信履歴を見る。履歴には、俺が掛けた取引先の会社名しか載っていない。ご丁寧な事に、発信履歴を消したらしい。
「御苦労なこった」
独りごちて携帯を閉じ、身近にあったコートに手をかけた。
自分でも珍しく、焦っているのがわかる。こんな事なら、あんな番号は早々に消してしまえば良かった。
一階下の会議室にいる奴らに留守を頼むと残し、 足早に社を後にした。留守を頼むとは言ったが、戻る気はない。
※No.05 → side Other
普段と変わらずにいれただろうか。下手な事を口走っていないだろうか。気持ちばかりが焦って、思考が悪い方悪い方へといってしまう。藤堂とあの男がまだ繋がっていたなんて、考えもしなかった。あの時あの場所で、あの出来事は全て丸く収まったのだとばかり思っていた。そう思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
藤堂が喫茶店を後にして数分も経たないうちに、赤井は素早くそこから離れた。藤堂の、手の届きそうにないどこかへ行きたかった。今藤堂にその事に関して口を出されたら、どんな事を言ってしまうかわからない。言いたい事は山ほどある。全てを打ちまければ楽になれるかもしれない。それでも、むやみやたらと言葉を投げつけたくはなかった。
混沌とした気持ちが怒濤のごとく体中を支配しようとする。赤井はふらふらとした足取りで藤堂のマンションまで戻ってきた。マンションのキーは持っている。いつでも入れるようにと藤堂がくれたものだ。マンションの門を潜った途端、赤井は思い出したように素早く動き出した。
今荷物をまとめてここを出れば、藤堂に会わずに自宅へ帰れるはずだった。藤堂はまだ会社にいるはずだ、そう思いながら、赤井は足早にエレベーターに乗り、藤堂の部屋まで移動する。軽快な音を立てて止まったエレベーターから降り、藤堂の部屋を目指す。
まだ会社にいるだろうか。もし何かの拍子に自分が携帯を覗いた事を知れば、直ぐここに戻ってきてしまうだろうか。ぐるぐると渦巻く波に頭の中をかき乱される。部屋の前まで来たものの、手が震えるのかなかなか上手く鍵を差し込めない。
「焦るな……慌てるな……」
自身を落ち着かせるように独りごちる。漸く鍵が差し込まれ、カチリと錠が外れる音がする。その音にホッとし、ドアを開けて素早く身を滑り込ませた。何を考えるよりも先に、荷物をまとめた。それほど多くはないから、まとめるのは簡単だった。忘れ物がないか確認しようとして、頭を振る。忘れ物なんかあってもいい、そう考え、赤井はその荷物だけ持って玄関先へと急いだ。が、手遅れだった。
まとめるのに気を取られていたのか、他の事が見えなくなる程焦っていたのか、藤堂が玄関に入って来た音に気付かなかった。藤堂はドアの前で腕組みをし、赤井を睨みあげるようにして眺めていた。
「……っ」
声も出せずに藤堂を見返す。藤堂の視線が赤井の手荷物に移った。近辺に出かけるとは思えない荷物を持ち、玄関に向かっていた。それだけで、赤井が何をしようとしていたかは直ぐに悟る事ができた。
赤井はこの時、直ぐにここに戻らなかった事を後悔した。藤堂が喫茶店を出た時は、数分も経たないうちにその場を離れた。だが、どこに行けばいいのだろうかと彷徨うのに時間を取られてしまった。それが故に、こうして幾分か遅くなり、この場所で藤堂と鉢合わせしてしまう羽目になったのだ。
藤堂の鋭い眼光が、赤井の言葉を促す。赤井は視線を逸らしながら口を小さく開いた。
「少し、気分転換しようと思って……本を、持って……」
自分が何を言っているのかよくわからない。それでもこの場の雰囲気をどうにかしたかった。だが藤堂は間入れずに、見え透いた嘘を吐くなと言い放ち、赤井の肩を掴んで強引に壁に押し付けた。ぶつかる痛みに呻きそうになるのをこらえ、赤井は俯いたまま視線をあげようとはしなかった。
「出て行こうとしてたんじゃあないのか。見たんだろ?」
その言葉に、赤井はぎゅっと瞳を閉じる。
見た。見てしまった。それだけで留まらず、掛けてしまった事にも後悔している。疑いを持った事にすら後悔した。後悔の念だけが、赤井の脳裏にまとわり付く。それでも、後悔の中に僅かな怒りが火を灯す。
――だったらなんで。
「なんで、何も言ってくれないんだ! こんな、隠し事みたいにして俺に言わないで、俺を信用してないって言ってるのと同じじゃないか!」
怒り任せで藤堂を睨み返し、赤井は口を開く。だが藤堂は一歩も引かなかった。
「信用してないって次元の問題じゃないだろ! いいか、確かにお前には言わずにいた。当たり前だろう? お前を巻き込みたくなかった、例え俺がこれに間接的に関わっていたとしても、俺かお前か、またヤツの手が回ってこないとは限らないだろう」
「巻き込みたくないからって一人で抱え込むのか! それが藤堂のやり方だったって言うのか?!」
無意味な口論が続く。
赤井は、藤堂のやり方がどんなものか十分に把握しているつもりだった。それでも、あの時からは随分と時間が経った。一緒に過ごす事で、もっと互いを信頼しているものだと思っていた。それは自身の方だけだったのかと、赤井は虚しくもなる。
言葉が途切れ、視線だけが絡み合う。ふと、藤堂がため息をつき肩を落とした。
「殴りたければ殴れ。いくらでも殴ってくれていい」
「違う、違う! 藤堂はっ……俺に、殴られる義理なんて、ないんだ……」
頭の中ではわかっていた。藤堂は昔とは明らかに違う。常に俺の事を考えて行動してくれた。今回の事だって、今言ってくれた様に俺の事を思っての行動だった。ただ、一言でも言ってくれればよかった。自分に何か出来るとは思ってない。それでも、話を聞くくらいはできる。藤堂の帰りを心配しながら待つ事くらいはできる。藤堂の、傍にいたい……。
様々な想いが瞳に涙を溜め込む。瞬きをすると同時に流れ出すその涙を、自分の手で拭いたくても動けなかった。その涙を、藤堂の舌先がそっと拭い取った。そのまま静かに、唇が重なる。
「赤井、俺のところへ来い。互いに足を運び合う関係じゃなく、俺の元に……」
話の流れについていけなくなりそうだ。純粋に、その言葉は嬉しくてしょうがない。だが、どうしてそこに話が飛ぶのか赤井は理解しきれなかった。
再び藤堂に唇を塞がれる。薄らと開かれた唇から、互いの熱い舌先が絡み合う。自然と差し出していた事に、赤井は驚きながらもその行為を拒む事が出来なかった。
藤堂の存在が、赤井にとっての安らぎだった。どんな皮肉を言われても、どんな事をされても、慈しむように触れてくるその温もりに、全てを預けてもいいとさえ思った。
「な、俺のとこに来いよ。一緒に住もうぜ」
唇が離れ、赤井はぎゅっと抱きしめられた。これだけで、本当に安堵してしまう。
そろりと腕を伸ばし、藤堂の背中に回す。藤堂の力強さに返す様、赤井も抱きしめ返した。言葉が出ずに、出るのは涙だけだった。僅かに顔を縦に動かすと、藤堂が頭を優しく撫でた。
暫くそのまま抱きしめ合い、漸くと藤堂が赤井を放した。赤井も息を整え、藤堂を見上げる。
「……有耶無耶にするなよ」
「してないさ。お前がかわいくて仕方がない」
皮肉を混めて言ったつもりだったが、藤堂には軽く躱された。赤井の肩に置かれた藤堂の手が、するりと腰の方へと滑り降りる。その感覚に身じろぎし、赤井は嫌だと呟いた。
「何だよ、嫌だって。生理か?」
その言葉に反射的に拳をあげる。藤堂は降参ポーズをとった。
「言っただろ……有耶無耶にしたくない」
本当は、プロポーズ的な事をされた事すら有耶無耶にされていると思った。でも、本当に、それだけは素直に嬉しい言葉だった。入り浸っていた赤井にとっては大差ないと思っていたが、これで仕事以外では一緒にいる事が出来る。相手を信頼していない訳ではない。それでも、藤堂の方が誘ってくれた事に、赤井は気持ちが砕ける思いをした。
どんなに喧嘩しても、その分だけ仲が深まるはずだと、そう信じて。
「どう……収集つけるの、その……あいつと」
相変わらず赤井の腰から手を放そうとしない藤堂に遠慮がちに聞くと、彼は暫く黙ってから懐から携帯を取り出した。赤井の目の前に出された携帯は仕事用のものだった。
「収集つけるも何もねえよ。お前がその番号を消せ。今はそれしか出来ないからな。まあ、あれだ、知らない番号は一切取らない。どうだ?」
まるで浮気をした夫が嫁に言い訳を言う様な態度だった。だが赤井はその態度に思わず笑みをもらした。
「藤堂が消した方がいい」
緩く首を振りながらそう言うと、藤堂は肩を竦め、携帯を操作し始めた。その人物の番号を画面に表示したところでそれを赤井に見せ、削除ボタンを押す。時間を掛ける事もなくそのデータは一瞬にして藤堂の携帯から消え去った。
赤井は少しだけ悩んだ。本当に消してしまってよかったのだろうかと。自分の我が儘とはいえ一応仕事関係の番号である事に変わりはない。
「そんな顔するな。したくなる」
「っ! しない!」
「わかってるって。耳元で騒ぐな」
藤堂が煩そうに身を放し、次いで笑みを見せる。微笑みとは思えないが、いつもの優しい藤堂だった。もちろん、この優しいと言うのは赤井にとってであり、他のメンバー一同はきっと賛同してくれないのだろう。それだけ、藤堂も赤井へと心を預けてくれている。
背中を見せリビングに歩みを進める藤堂を、赤井はちょっと待ってと呼び止めた。
「こんな時になんだけど、俺、今週末実家に戻って父さんの墓参りに行ってくる予定なんだ」
おずおずと躊躇いがちに話すと、藤堂はそうかとだけ答え何か考え込んでいるようだった。赤井はそのまま暫く藤堂を見ていたが、彼はずっと考え事をしているかのように動こうとしなかった。どうすればいいのかと迷い、声をかけようとしたところで藤堂は何かを思いついたように手をポンと叩いた。
「その墓参り、俺も行っていいよな」
「……なんで?」
赤井は嫌な予感がした。まさかこの期に及んで両親に変な事でも吹き込むんじゃないかと少し不安になった。
「仲間として挨拶に行くだけだ」
言いながらも、藤堂はやけに機嫌が良さそうだった。それよりも、良いと応えを出すよりも前に、藤堂は行く気満々の様に見えた。不安が的中する事だけはありませんようにと、赤井は胸の内で十字を切った。
2008.9.15-2009.1.18-2009.4.19-2009.5.13-2010.7.10
何かもう色々有耶無耶ですみません。私が有耶無耶にしてます。