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望ちゃんのこと

 
 ふと気になったので第一話を読み返してみた。
 
 
続き
 
 
 第一話の回想シーン、呂望の村が殷の軍隊に襲われるところで、呂望は村へ戻っていない。
 
 立ち話をしていた姜族のおばさんは、村に火の手が上がると同時に飛んで帰ったが、呂望はこの時点で動いていない。むしろ走り出したおばさんに「待つんだ!」と声をかけている。戻ったのは火の手が完全に収まったあと、村が燃え尽き軍隊が姿を消して、身の安全が確保できてから。
 その後は、隣村で妲己ちゃんの話を聞いて元始天尊にスカウトされ現在に至るという流れ。蛇足だが、隣村は、孤児になった呂望の服の状態から見て、故郷の村からそう離れてない位置と思われる。

 さて、何故呂望はすぐに村へ戻らなかったのか。
 
 コマ数が少ない上にフジリュー独特のさらりとした描写なので、つかみにくいところだがこういう重箱の隅をつついてほじくり返すのが好きなので、自分なりに解釈してみる。
 
 ひとつめは、危険だと理性的に判断した結果というもの。
 
「待つんだ!」という制止のセリフから察するに、呂望は今村へ戻ると命が危ないと判断し、自分の身の安全を優先したと考えられる。軍隊の規模が大きく、火災、略奪の副産物と思われる、も大規模であったことから、いまさら非戦闘員がふたり加勢したところで焼け石に水なのは確かですな。実際、村へ戻ったおばさんは生死不明。
 
 齢12にして頭領の一族としての自覚を持つ早熟な息子さんらしいとも言えるし、後の軍師としての活躍の片鱗を感じさせる解釈でしょう。
 
 ただ、これだとあんまり子どもっぽくないですね。冷徹すぎる。致死率バリ高な病気の天祥を抱えて歩いたり、楊ゼン助けに敵地に司令塔自ら突っ込む無謀っぷりと矛盾します。
 友愛にあふれているのは望ちゃんのいいところですが、仙界大戦オープニングの仙人界ぶつけるシーン(楊ゼン単騎に全軍の命運まかせっきり)とかこいつほんとに軍師か?と首をひねりたくなる危うさでした。
 
 強いストレスを感じる状態に置かれたときの判断基準でその人の性向がはっきりわかると言われていますが、それでいくと望ちゃんは情に流されやすい性向と言えるでしょう。
 
 その一方で、根が真面目で責任感が強いキャラクターでもあることが明示されとります。これは親友普賢や元始天尊の指摘(普賢が見栄と看破し、元始天尊が潔癖と称した)や、初期聞仲戦で仲間を守るために血を吐きながら宝貝を使ったシーン、さらに言うなら第一話で姜族の村に気づき申公豹の雷を正面から受けたあのシーンにもうかがえるのではないかと。少年漫画的には盛り上がりMAXで大歓迎なステキな場面ですが、冷静に考えるとぶっちゃけ無謀です。
 
 これらのシーンに共通しているのは、人命救助という点です。
 太公望は、どうも人の命が絡むと自分のキャパシティを考えずに抱え込むタイプのようです。
 
 連載初期にいきなり殷王宮の妲己へ頭脳戦を挑んだのも、人間界に仙人は不要→というか仙人の企みに人間を一切巻き込みたくない→じゃあわしだけでケリつけちゃえばよくね!?的短絡思考の結果と思われます。
 仙人界全体のたくらみであり、個人的には一族の復讐に端を発した封神計画、これを遂行すると少なからず人間界に混乱が巻き起こる。それに気づいていた彼なりの責任の取り方ではないかと。まあ、これは姜族への弾圧強化という最悪の形で挫折するわけですけどね。
 
 さて、つらつらと望ちゃんがいかに責任感強いかを書き連ねてたわけですが、これはつまり裏を返すと、ものすごい見栄っ張りでもあるわけですね。責任を取ろうとするということは、自分にはそれができると思いこんでるわけで。そして彼は前述のように人の命が絡むと自分のキャパシティを考えないわけで。
 
 というわけでここで最初に戻って、私としてはふたつめの解釈、ただ単に怖くて動けなかった、を推したい。

 えー、じつに唐突で申し訳ない感じですが、ここでこう解釈しとくと、封神計画における望ちゃんの無謀っぷりが説明できるんですね。
 
 おそらく村に火の手が上がった時点で、絶望的な状況だと呂望は気づいていたと思われます。
 ところが、家族の安否を確かめるために一縷の希望にすがって走り出したおばさんに比べて、頭領の息子という立場であるにも関わらず足がすくんで動けなかった。おばさんに制止の声をかけたのは、身の危険を案じるというのも確かにあったのでしょうが、独りになるのが心細かったからかも。
 年相応といえばじつに年相応ですし、それがおそらく一般的な反応でしょう。
 
 しかし一族の一大事におびえて何もしなかったという事実は、呂望の人格形成に多大な影響を及ぼしたと思われます。また、こういう過去があるからこそ、望ちゃんの人命救助への異常なこだわりが生まれていると考えられます。
 
 結局そんな彼は物語の終盤で死んでしまって、復活するためには王天君と同化しなくてはならなかったというあたりも暗示的ですな。
 物語において、太公望はちゃらんぽらんな言動を隠れ蓑に責任感の有る心優しい人物であることがこれでもかと描写されてるわけですが、これらが元をただせば過去の贖罪であったと考えるとなかなかスリリングです。
 
 何故なら他人のためを思って行われたとおぼしき英雄的行為の数々が、すべてただの自己満足だったという言い方ができるからです。
 それは己の過去からくる心痛を麻痺させる代償であり、本心から他人を思っての行為ではない。代償である以上、根本的な解決には程遠く、一時的な処置にしかならない。
 太公望にとって、人の命を見捨てることはトラウマとなった過去のシーンを再演することになる。その恐怖から逃れるために、際限なく抱え込み、軍師らしからぬ無謀な行為に走る。つまり彼は、人の命を見捨ててはいけないという、一見立派な、強迫観念にとらわれていた可能性がある。それはやはり、どんなにうまく周囲に作用していたとしても、太公望の心の弱さでしょう。だからこそ、彼は志半ばにして死んでしまったのかもしれません。
 
 封神計画も終盤に差し迫ってくると、これまでは目的に向かって走っていればよかっただけの太公望に転機が訪れます。終わったあとどうするかっつー問題です。
 そもそも蓬莱島に舞台が移る前に殷周革命はすっかり成し遂げられており、あとは仙道が落ち着くところに落ち着けばオッケーという状態です。そうなると自然、自分の心とも向き合う必要が出てくる。
 そしてこれまで英雄的行動で周囲に自分の心の弱さを受け入れさせていた太公望に、その準備はできてなかったのではないでしょうか。
 死に方もまた象徴的ですね。自分の原点である幼少期へ戻されて乙、ですからね。ここまでくると拡大解釈極まれりですね。
 
 おいといて、そんなわけで彼が封神計画を完遂させ、一団を解散して、もう逃避先のない自分だけの人生を歩んでいくための準備として、他人を見捨てることができない心の弱さを克服する必要があった。それが王天君との融合ではなかろうかと。
 始祖としての力と記憶に目覚めた後、傍らで苦楽を共にしてきた四不象にまで「本当にあの太公望か…?」といぶかしがられるような言動をするわけですが、あれはまあ、私の感覚で行くと、関わったすべての命の安全を保障しなくてはならないという強迫観念から解放されたからではないかと思われます。
 
 ご存知の通り王天君は効率的に仲間を使い潰していく、太公望とは正反対の戦法を取る軍師です。そして人命優先の太公望と効率優先の王天君が融合した伏羲は、その両方の戦法を取ることができる人物です。
 これは両極端が融合して、偏ってたのが普通になったということでよい気がします。ロウとカオスで悪魔合体したらニュートラルになったよ、みたいな。
 つまり伏羲は、周囲の状況を見ながら正攻法も絡め手も選択判断できるバランスのとれた人格として生み直されたと解釈できるのです。バランスがとれてるから冷たいこともさらっと言えるし、あっさりひるがえすし、ペテンにも磨きがかかっている。
 
 でもこれって、ごくフツーの人間なんですよね。性格的には。
 嘘つきで利己主義で、でも人のことも気にするし、まわりにも合わせるし、きついことも冷たいことも口にするけど、実行するわけじゃない。なんだかんだで結局みんなと協力して気がついたらなんかやり遂げてる。そんな、そこらへんにわちゃわちゃいるごくごくフツーの人間。 
 
 人類の始祖は、ああ確かにこいつから人類生まれたなって思わせる普通の人間でしたってなオチだったと、私は考えています。
 
 
 
 なんかすんげー長くなったな。わけわからんけど、まあこんなことを考えてます。けど王天君についてはもっと読み込むべきでしたね。
 ほんの3Pでここまで深読みさせるフジリューの演出テクはすばらしいですね。