【ポケットの中の千早】 サンプル2

 事務所の扉を開けて、春香を探す。
 いつもはパソコンの前で難しい顔をしている音無さんや律子も、いつの間にか外出していたらしく、今はいない。他に目に入る人も居なく、いつもは賑やかなこの部屋も、がらんとしていてなんだか寂しい。

「春香、いるの?」
「あ、千早ちゃん」

 私がそう呼びかけると、事務所の奥に作られている応接スペースの衝立から、ひょっこりとにこにこした顔だけを出して春香が返事をした。
 こっちこっちと、春香に手招きされて、私も応接スペースへと足を踏み入れる。そこでは、春香とあずささんが紅茶を片手に話に花を咲かせていたらしい。
 あずささんが買ってきたと思われる、近所の輸入食品屋さんの袋がソファーの傍らに置いてあるので、この紅茶は恐らくそれだろう。
 あのお店はあずささん御用達で、かなりのお気に入りらしい。お店自体はそんなに大きくなく、場所もビルが入り組んだ区画の奥まったところにあって、普段なら私も足を踏み入れようとはしない、そんな分かりづらい場所にある。現に、あずささん以外はあのお店の場所を誰も知らなかった。
 よく迷子になるあずささんだからこそ見つけられたお店だ、とあの場ではちょっとした笑い話になったことを思い出した。
 テーブルの上には何冊かのお菓子のレシピ本が広げられていたので、プロデューサーが言っていたように「一味変わったビスケット」について相談していたのだろうと予想がついた。

「あずささんもいらしたのですね」
「ええ、今日もとても日差しが心地良かったでしょう? だから、ついついお昼寝をしてしまって。起きてみたら、周りにだれも居なくって、もう夜中になってしまったかと思いました〜」
「はあ、あずささんらしいですね」
「うふふ♪ でも、春香ちゃんがいてくれてよかったわ〜。折角買ってきた新しい紅茶の葉っぱも、一人で味わうのはちょっと寂しいものね」

 事務所に来ているのに、ただ昼寝だけ、というのも、それこそデビューしたての全く売れない頃ならともかく、あのファミリーコンサートに呼ばれるくらいの今ともなれば何だかおかしな話だったけれど、きちんと話を聞いてみると、午後に予定されていた取材が先方の都合で延期されたらしく、今日は半ばオフのようになってしまったようだ。
 それならそれで、自主的にレッスンするなり、いろいろな過ごし方はあると思うのだけれど、あずささんのペースはいまいち掴めないところがある。

「ところで春香、プロデューサーから聞いたのだけど、何か変わった味のビスケットを考えてるらしいわね」
「そう! そうなんだー。お母さんがね、今度フリーマーケットに出店するんだけど、『せっかくだし、春香の作ったお菓子でも出してみる?』なんて言ってきて。
 それなら私も腕の見せ所! って思って、ついオッケーしちゃったんだけど、いざとなるとどうしようか考えちゃって。一応、日持ちがするようにビスケットがいいかなあ、とは考えたんだ。
 でも、クッキーはよく焼くし、色々な味を試したこともあるんだけど、ビスケットってそんなに焼かないからどうしようか困っちゃって。だって、普通じゃつまんないでしょ?」

 春香は、熱っぽくそこまで一気にまくし立てると、ちょっとすがるような目で私を見つめてきた。その目はまさに「助けて、千早ちゃん」と言っている。
 ちょっと気圧されはするものの、私にすがられても、やはり困る。
 私も、歌について熱弁を振るう時は、今の春香みたいな感じなのかしら。ふふ、ちょっとおかしい。
 あ、でも今の春香の話を聞いていて、ちょっと疑問が湧いてきた。

「ねえ春香、ビスケットとクッキーって、どう違うのかしら?」

 今まで意識したことなんてなかったけれど、ビスケットとクッキーって、やっぱり違うものなのよね。見た目には同じものに見えるけど……私の今までの経験から考えると、ビスケットの方が固そうな気がする。
 サクッとしているのがクッキーで、サクサクしてるのがビスケット? ……これじゃ一緒ね。

「ん? あのね、使う油脂の量が多いのがクッキーで少ないのがビスケット、ってことになってるみたいだよ、日本では」
「日本では?」
「うん。アメリカでは全部まとめてクッキーって呼ぶし、イギリスでは全部ビスケットって呼ぶの。アメリカでビスケットって言ったら、柔らかいパンみたいなのを指すんだって。ほら、あのカーネルおじさんのお店で売ってるビスケット、あれのこと」

 ……正直びっくりした。春香って、お菓子を作ることだけじゃなくて、お菓子自体の知識もかなりあったのね。
 それから、あのフライドチキンチェーン店のことを「カーネルおじさんのお店」って呼んでることにも。

「は、春香? あの、カーネルおじさんのお店、って……」
「あれ? 千早ちゃんってば、知らない? 千早ちゃんって、賢そうに見えて意外と世間のことを知らなかったりするもんねー」
「あ、いや、そうじゃなくって、その呼び方」
「? 家の近所じゃ、みんな『カーネルおじさんのお店』って呼んでるよ? 略して、カーネルさん」

 ……か、カーネルさん。さすがにこれは私も面食らった。こういうのも、カルチャーショックって言うのかしら……。

「カーネルさん。うふふ、かわいい名前ね♪」
「あずささんもそう思います? まだ私が小さい時に私の町にできたんですけど、私、あの白いおひげのおじさんの人形が大好きで。『今日はチキンだぞ』っていう日は、ご馳走が来た! ってお店に行くのがすっごく楽しみだったんですよ!」
「そうねえ、確かにあれはご馳走だと私も思うわ。そうだ! 今度、事務所のみんなでフライドチキンパーティしましょう♪ きっと、楽しいわ」
「あ、あずささん、それいい考えです! 千早ちゃんもそう思うでしょ?」
「……カーネルさん……え、ええっ?」

 いきなり私の方に話を振られたものだから、つい大声をあげてしまった。カーネルさんという呼び方も、悪くはないかな、なんて春香に影響されすぎかしら。
 気が付けば、なんだか、話が私からどんどん遠ざかっていくのが見える……。今って確か、ビスケットの話をしていたような気がするのだけれど……。女の子はおしゃべりが好きだというけれど、少しそれが分かった気がする。

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