【ポケットの中の千早】 サンプル3
「あずささんのように大きな愛を持って童謡を歌うことは、私にはできません」
「大きな愛、だなんて、それはちょっと大げさよ〜。んー、でも、童謡だったら千早ちゃんだって、それこそ私なんかよりも、ずっとずっと上手いでしょ?」
「何て言えばよいのか……歌唱力というよりは表現力というか……あ! いえ、別にあずささんの歌唱力が私よりも劣っているとか、決してそういうつもりで言ったわけじゃないんです!」
「ふふっ、いいのよ別に。千早ちゃんの歌唱力が優れている、っていうのは事務所の誰も、ううん、千早ちゃんの歌を聞いた誰もが思うことだもの。もっと誇りに思っていいのよ」
ああ、だめ。あずささんと話していると、ペースを全部握られてしまう。それも、私の周りから包み込むように。あずささんは普段からこういう性格だから、きっと歌にもそれが表れているんだわ。
「と、とにかく、あずささんの歌には全てを包み込む優しさがあります」
つい、照れ隠しに早口になってしまう私。うう、なんだか、とても恥ずかしい……。
「そうかしら? 自分ではよく分からないのだけど、千早ちゃんがそう言うなら、そうなのね。ありがとう、千早ちゃん」
「は、はい……」
あずささんにそう言われて、つい顔を伏せてしまった。
あずささんに褒められると、とても嬉しいのだけれど、とても恥ずかしくて、顔がまともに見られなくなる。プロデューサーに褒められたときとは、また違った感じがして……すっごく不思議。
「んー、でもそれは年齢的なものじゃないかしら? ほら、私ってば一応はみんなの中で最年長だし……。音無さんだって、私から見たら『頼れるお姉さん』って感じだもの」
確かに、音無さんがとても頼れるお姉さんだというのには異論無い……かしら? 基本的には、それで問題ないのだけれど、時々、例えば亜美や真美と遊んでいるときなんかは、何故か……いえ、これ以上はいくらなんでも音無さんに失礼だわ。いけない、いけない。
「私もそれは考えましたが、高槻さんにも感じるんです。あずささんとは違いますけれど、包み込む優しさというか、温かさというか……」
「やよいちゃんに?」
「はい、年齢でいえば高槻さんの方が下なのですが……少し、恥ずかしい話なのですけれど、私、以前高槻さんに叱られてしまったことがあって」
あずささんは、やはりそのことが不思議だったようで、興味津々で私の話の続きを待ちかまえていました。
それは、本当に何気ないことで。
ロッカールームから出るときに、誰もいないのに、つい電灯のスイッチを切り忘れて出てしまったことがあって。ちょうどそこに入れ違いで高槻さんが入っていったらしく、私の背中から「こら! 使わない電気は消しなさいって、いっつも言ってるでしょ!」と、怒鳴り声が聞こえてきたの。
そんな声が聞こえたものだから、はっと気付いた私は反射的に振り向いて「ごめんなさい! うっかりしていたわ」と、深々と頭を下げた。顔を上げたときに目に飛び込んできたのは、なぜだかおろおろしている高槻さんだった。
「ごごご、ごめんなさい! 千早さん! つい、家に居るみたいな怒り方しちゃって……」と、初めは勢いがよかったのに段々としょんぼりしていく高槻さんを見ながら、ああ、やっぱりお姉ちゃんなんだな、と微笑ましく思いました。
その後、萎縮してしまった高槻さんを、「悪いのは私の方だから、気にすることなんてないわ」と、どうしてか本来怒られるべき立場の私が元気づけることになってしまい、それはそれでちょっとおかしな事件だな、と心の中で苦笑してしまいました。
「まあ、そんなことが」
「ですから、高槻さんの場合は、5人兄弟の一番上ということが関わっているのではないか、と思ったんです」
「そうねえ……私は一人っ子だけれど……。あら、そういえば、千早ちゃんって兄弟はいたかしら?」
私は……。
「……いえ」
喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
両親が離婚して以来、その件に関することは全て吹っ切ったと思っていたのだけれど……まだ少し弟のことを引きずっているのかもしれない……。
ここから先はもう大丈夫と、ある時点からがらっと変わってしまうようなものではなく、徐々に徐々に変わっていくものなのだろう。
プロデューサーには話すことができたのに、他の人には、まだ話せる勇気が出ない。
ごめんなさい、あずささん。このことは、いつか話せるときが来ると思うので、今は弱い私を許してください。
「そう、千早ちゃんも一人っ子なの。うーん、だったら千早ちゃんは、やよいちゃんとも違う、そして私とも違う、千早ちゃんだけの包む力を見つけないといけないわね」
「私だけの、包む力?」
あずささんのように年月を重ねた上で備わるような優しさも無い、高槻さんのように長女としての厳しさを併せ持った優しさも無い。そもそも、私があずささんと同じ年齢になったとして、高槻さんと同じように今も姉の役割を果たしていたとして、それで二人のような包む力が私に備わっていただろうか?
一体、私には歌以外に何があるというのだろうか。