【好きだよと言ってね】 サンプル3

「おはよう、伊織」
「おはよう、ちい兄さん」

 ちい兄さんが帰ってきてから一週間程が過ぎた。
 ここのところ、ちい兄さんを見かけると、窓の外のどこか遠くを見ていたり、私と話していても何かつまらなさそうで、すぐに話を切ってどこかへ行ってしまうことがあった。
 そもそも、家でちい兄さんを見かけることがあんまりないのよねえ。
 そりゃ、ちい兄さんにだって日本での友達や知り合いはたくさんいるでしょうけど。
 たまのオフだし、「昔にみたいに何かおねだりしてみようかしら? それとも、記念に私が何かプレゼントしようかしら」なんてウキウキしながら飛び起きてちい兄さんとどこかへ出かけようと思っていたのに、その日丸一日見かけなかった時はさすがに心配したわ。
 ちい兄さんに何かあったんじゃないかって。
 そして、事件はその夜に起きたの。

 どうしてもちい兄さんと話がしたかった私は、案の定まだ家には戻っていなかったちい兄さんの部屋の前でしばらく待つことにした。
 背中を扉に預けて、一体ちい兄さんに何があったのか、思索を巡らせてみる。
 ちい兄さんが帰ってきたあの日、レストランで食事をしていたときはまだ普通に話していたわよねえ?
 次の日から、徐々におかしくなっていったというか、微妙に私を避けているというか。
 新堂や他のお手伝いさんに気さくに話しかけているのは私も何度も見ているし、兄さんにだって……そういえば、兄さんとちい兄さんが話してるのもあんまり見かけないわね。
 確かに、元々普段から何かを話し合ってるような二人じゃないけど、それでも……せいぜい一言か二言交わしただけで、去っていってしまうみたい。
 もしかして、私だけを避けてるわけじゃなくて、兄さんまで避けてるのかしら?
 ……まさか、家族全員を避けてるわけじゃ、ないわよね。ううん、そんなことあるはずないわ。だって、そんなことするんなら、わざわざ家に帰ってきたりなんてしないはずだもの……。

「伊織?」
「ひゃあ! ち、ちい兄さん!」

 突然声をかけられて少し跳びあがってしまった。
 ちい兄さんのことを待ってたっていうのに、近づいてくるのに気付かないなんてダメダメね、私。
 とにかく、目論見通りにちい兄さんと会うことができたんだから、きちんと話をしなきゃ!

「ちい兄さん、話があるの!」
「そこ、どいてくれないかな、伊織」

 そう、静かに微笑みながら語りかけてくるちい兄さんだったけど、目が笑っていなかったのを、私は見逃さなかった。

「そうはいかないわ。私、ちい兄さんとお話したいことがあるんだもの」
「僕には、ないよ」

 私をどけて部屋へと入ろうとするちい兄さんに、どかせまいとして体に力を込めて抵抗する。

「私が、ちい兄さんと、お話がしたいの。……なんで、なんでちい兄さんは私を避けるの? 小さい頃はあんなに……」
「あの頃とは違うんだよ。兄さんや伊織には、僕の気持ちは分からない! 社長として成功してる兄さんや、アイドルとして成功してる伊織にはね!」
「何を、言ってるの……?」

 ちい兄さんに一喝されて、私は全身に嫌な汗が噴き出るかのようだった。ぞわっとした空気が私を撫でていく。
 何!? 何なの!?
 ちい兄さんが何を言っているのか、私には理解できなかった。
 だって、ちい兄さんだってアメリカの、それも名門の大学に留学してるじゃない。父さんからも将来を嘱望されて……ちい兄さんだって、成功してるじゃない。

「……ごめん、伊織。怒鳴ったりして。そこ、どいてくれないか」
「え、ええ……」

 一瞬、失敗したような、しまったという顔をした後、ちい兄さんの顔には、また暗く陰がかかってしまった。
 本当は、まだちい兄さんに聞きたいことはあったけど……ちい兄さんの本当の気持ちは聞けていないけど、今はこれ以上、心の扉を開けられるほどの想いを私は持ち合わせていなかった。
 扉の前から半歩横に移動した私を見もせずに、ちい兄さんは部屋の中へと消えていった。
 バタンという小さな音だけが廊下に響き渡る。
 ……私、ちい兄さんに嫌われちゃったのかしら。当然よね、ちい兄さんが留学する前の数年は、私の方がちい兄さんを避けていたんだから。
 だって、兄さん達には力があった。私には無い力が。
 それを妬ましく思って兄さん達を避けていたのは、私の弱さのせい。
 今は、兄さんとは昔のように接しているけど、ちい兄さんとは留学する直前に、好きだって、私の大切な兄さんだってきちんと一度伝えただけ。ううん、きちんと伝えたと思っていたのは、私だけだったのかもしれない。ちい兄さんは、そうは思っていなかったのかもしれない。
 だったら、やっぱりちい兄さんと仲直りをしなきゃダメよね!
 食事の時はあんなに楽しそうにおしゃべりしてくれたんですもの。きっと、大丈夫よね? また、元の仲良し兄妹に戻れるわよね?
 ……でも、それを踏まえても、ちい兄さんの様子に違和感を覚えてることは事実なのよねえ……。
 それを聞くためにも、なんとかしなきゃ。
 まずは誰かに相談した方がいいかも。兄さん? 新堂? プロデューサー? とにかく、思い当たることはなんでもやってみなきゃね。
「だから、私に力を貸してね、うさちゃん……」
 胸の前で抱えていたうさちゃんをぎゅっと抱きしめて、気持ちを入れ替える。
 見上げたシャンデリアの光は、少し滲んで目の前をきらきらと踊っていた。


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