【月の贈り物】 サンプル3

「……」
 湯の温かさが骨身にしみます。
「いいお湯ね、貴音ちゃん」
「はい」
 今日は朝早くから温泉街のレポートという旅番組のロケがありました。スタッフさん達は皆、撮影が終わり次第帰られたのですが、私達は高木殿のはからいで温泉旅館にて一泊してから帰ることになっていました。せっかくの機会なのだから普段の疲れを癒してくるといい、と。
 本来はプロデューサー殿も宿泊する予定だったのですが、何やら急用ということで一足先に帰ってしまいました。残念です。
 見上げると、空には月が白く輝いており、その優しい光が露天風呂のお湯をきらめかせています。そう、まるであずささんと初めて会ったときのように。
 まだ半年ほど前のことなのに、なんだかもうずいぶん昔のことのような気がします。それだけ密度が濃い半年だったのかもしれません。
 アイドル活動も順調でメディアへの露出もかなり多くなったと言っていいでしょう。きっと、散り散りになった故郷の民にも私の姿を示せているのではないかと思います。
 そういえば、あずささんはどうしてアイドルになったのでしょうか。私の場合、アイドルそのものが目的ではないので、アイドルだけを真摯に目指している方から見れば不純だと言われるかもしれません。
 けれど、そういった誹謗は真正面から受けましょう。そして、越えましょう。何人たりとも私の前に立ちふさがらせたりはさせないのですから。
「ねえ、貴音ちゃん。貴音ちゃんはどうしてアイドルになろうと思ったの?」
「ちょうど私も同じことを考えていました」
 驚きました……。どうにもあずささんとは似たところがあるな、とは感じていましたが、考えまで似ることがあるとは。
「運命……」
「え?」
「あずささんと私が出会ったことは、やはり運命だったのかもしれません」
「あ、ああ、そう言うこと……そうね、そうかもしれないわね」
 何でしょう。今確かに、あずささんがかなりの動揺を見せていたと思うのですが……。「運命」、この言葉があずささんにとっては大事な言葉なのかもしれません。
「私はね、自分の存在を多くの人に示したいの。うーん、ちょっと抽象的すぎるかしら? でも、他にうまい言葉が思い付かなくて。それから、トップアイドルになりたいっていうのもちゃんとあるのよ」
 自分の存在を示したい……。
「それは私も同じです。私がここにある、ということを多くの人に知らしめたいのです」
 あずささんと私、目的は違えどもどうやら目指しているものは同じようですね。そのことがなぜだかとても嬉しくて、私はついつい口角を上げて笑みを浮かべてしまいました。
「そうなの……なんだか貴音ちゃんからどこか急いでいるような、焦っているような印象を受けることがあったんだけど、それでなのかしら?」
「焦っている?」
 私が? 全く自覚はありませんでした。
 確かに、できるだけ早く私の姿を故郷の民に知らしめたいという想いは持っていましたが、それが態度にまで表れるとは相当の想いだったのでしょう。
 でも、それも仕方のないことなんです。幼き頃よりじいやから常日頃言われてきたことなのですから。私は常に王女たらねばならない、と。
 アイドルとなりその機会を得たことによって、民の不安を取り除くことができるようになったのですから、心に焦りが生まれるのも必定だったのかもしれません。
 常に平常心でいるようにと心がけていたのですが、あずささんには既に見抜かれていたのですね。
 先日、プロデューサー殿にも月の下にて泣いているところを見られてしまいましたし、いい機会なのかもしれません。抽象的な言葉でごまかすのではなく、あずささんにも私の使命について話しておいた方がいいのかもしれません。
「あの、あずささん――」
「たとえ明日、世界が滅びるとしても、私は今日、林檎の木を植える」
 突然、あずささんが故事の教えのような言葉を発しました。一体……?
「私が高校生の時に尊敬していた国語の先生が教えてくれた言葉なの。誰の言葉なのかは分からないのだけど、とても印象に残っていて」
「つまりはどういうことなのでしょうか」
「私はこう思った、ということなんだけど――急に明日世界が滅びると言われたって、何ができるというわけでもないじゃない? それにもしかしたら世界は滅びないかもしれない。だったら、普段と同じことをして過ごすのが正しいのではないか、という意味だと思うの。つまり、先に何があろうとも私達ができることは一歩一歩、前に進むことだけ。大事なことなのかもしれないけれど、焦っても仕方ないと思わない?」
「あずささんの言うことは分かりますが、先を急ぎたいこともあると思います」
 私の言葉に、あずささんはやや首をかしげて考えて始めました。
「うーん……その時は、一本多く林檎の木を植えましょう。そうすればちょっとだけ先に進めるわ」
「それは先程の言葉と矛盾するような……」
「大丈夫よ。一本くらい大目に見てくれるわよ」
「大目に見るとは、誰がですか?」
「え? それは……誰かしらね?」
 あずささんのとぼけた回答に、私は気が抜けてしまいました。とても、あずささんらしい。
「分かったわ! 一本多く植えたら、その分、次の日は一本少なくすればいいのよ。こうすれば全体の本数は変わらないから問題ないと思うんだけど……だめかしら? ……だめよね」
 ひねり出した答えに自信がなかったのか、あずささんはしょんぼりとうつむいてしまいました。
「だめじゃありませんよ」
「え?」
「だめじゃないと言ったんです。植えましょう、林檎の木。一本ずつ、着実に」
 一人一人に私の存在を示せるように。
「ええ♪」
 あずささんは私の手を取って、満面の笑みで微笑みかけてくれました。

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