夜の雨が好きだ。
 夏樹は思う。
 仕事から帰ってぼうっとしている時間に雨音がする。なんだかそれで疲れた心が静まっていく、そんな気がして、好きだと。
 薄暗くした部屋の中、ただ一人で何を考えるわけでもなくじっと外を眺めていた。
 窓ガラスには雨のしずくが流れて模様を作る。
 マンションの高い位置の部屋から眺めるみなとみらいの明かりも、いつもより光が滲んで、きれい。
 一階分、高いからカイルの部屋の方がきれいなんだ、そう夏樹は思っているけれど、これはたぶん「カイルの部屋だから」きれいに見えるのだろう、と自分でわかってもいる。
 そう思うこと自体がささくれた心に気持ちいい。知らず口元に微笑が浮かぶ。
 想いを言葉にすることはほとんどないけれど、こうして内心では深く大切にしている。
 それをカイルが認め、知っていてくれるということ。
 時にはわかっているのか不安にならなくもない。
 だからこそ、それを確認できることは夏樹にとって必要なことだった。
 特にこんな風に忙しい日々には。
 立て込む仕事に意思の疎通が上手く行かないこともある。
 自分の意思を理解できないのはカイルではなくその部下だ、と頭でわかっていても感情は納得できない。
 自然、顔つきも険しくなるばかり。
 自宅に帰ってからも些細なことで二人して声を荒らげることも何度かあった。
 幸いお互い原因は仕事だ、とわかってはいたから後々響くような喧嘩ではなかったけれど、気分の良かろうはずもない。
 ようやく一段落、というわけではないけれど今日の仕事で半段落、くらいはした。なんとか軌道に乗せたから、あとは実務レベルになる。
 具合のいいことに今日は忙しさは変わらないものの部下たちが良く働いた。おかげで社長の顔色が変わることもなければ、秘書室長が青ざめることもなかった。
 疲れてはいた。けれど気分的には少し、ほっとしている。雨音のせいかも知れない。
 キッチンから物音が聞こえる。
「あいつは」
 いつもそうだ。
 自分だって仕事で疲れているくせに、こうやってなにやかにやとしてくれる。
 だから余計に疲れるんだ、と思うこともあったけれど、カイルにとっては自分の周りをかまうことが一種のストレス解消になっているらしい、と気づいてからは放っておくことに決めている。
 なにせ喧嘩の後でも黙って食事の支度をするような男なのだから。
 それも嫌がらせや皮肉ではなく、好きでしているのだから不思議な男だ。
 開け放したまのドアからはいい香り。
 ふ、と夏樹の頬に笑みが浮かんだ。
 床にじかに置いたクッションに長々と身を伸ばし、軽く目を閉じればやはり雨音が聞こえる。
 眠気を誘うようなそれが今は何より心地いい。
 着替える気力もなく伸びてしまった体が窮屈で、喉元に指をかけてはネクタイを緩めた。
 知らずほっと溜息が漏れる。
「疲れたでしょう」
 いつの間にかカイルがそこに立っていた。
 手には熱いコーヒー。先程キッチンから漂ってきた、香り。
「熱いよ」
 手渡しながらカイルは言う。
 けれどその手に持った自分の分と比べれば湯気の立ち方はずっと穏やかだった。
 猫舌の自分のため、そうして少しぬるめたものを用意してくれる。
 なにを言うわけでもない。頼んだことすらない。
 それなのにいつしか決まって少しぬるいコーヒーを淹れてくれるようになっていた。
 そんなことが、嬉しい。
 言葉を口にするのが苦手だ。言い訳だとわかってはいるけれど、礼すらろくに言わない自分を許してくれるカイルに黙ってコーヒーをかかげれば穏やかな笑顔が返ってくる。
 黙って隣に腰掛けたカイルに少しだけ身を寄せる。
 「友人」として過ごした長い期間のせいか、いつもカイルは遠慮がちにわずかに離れて座った。
 それはそれで好もしい性格だ、と夏樹は思う。思うけれど今はもう少しだけ側にいたい。
 ほんの軽く、頭をカイルの肩に寄せれば髪を撫でる指先の気配。
 目を閉じれば布越しに伝わる柔らかいカイルの体温。
 ぬくもりが頬に伝わる。
 何を話すでもなくただ、こうしているのが好きだった。
 わかっていることを口にする、無駄な会話。
 それが何より夏樹にはストレスだった。
 せめてカイルがそばにいてくれる時間には黙っていたい。
 けれどカイルの声を聞くのは好きだった。
 優しい、少し低い声。
 その声でぽつりぽつりと話されるのを聞くのが好きだった。
 でも、今は。カイルはしゃべらない。黙って髪を梳いている。
 自分がいま欲しいのはこうしている時間だけなのだ、と理解してくれている。百万回の愛のささやきよりよほどそれが嬉しい。
 どれほどそうしていたか。
「気分は」
 カイルに問われたとき、もうずいぶんと疲れが癒えているのに、気づく。
 それもまた、いつものこと。
 その頃になってぬるくしたはずのコーヒーが程よくさらに冷めて丁度いい温度なるのも、また。
「悪くない」
 夏樹はただ、それだけを言ってわずかに顔を動かした。カイルの方に。触れるだけの唇。眠ってしまいたい心地良さ。
 雨音はまだ、消えない。




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