社内で有名な変人の集団こと秘書室に顔を出すのはあまり他の部署の社員にとって嬉しいことではなかった。とはいえ、仕事では仕方ない。そんな顔をしながらそれでも嬉々として顔を見せるのは社長か秘書室長がいないか、と窺う若い女性くらいのものだった。
「新庄さーん」
 隣接する総務課から顔を出したのはやはりそんな若い女性だった。
「はい?」
 全体的に年齢層の低い社員たちの中でも秘書室の副室長を務める新庄は若かった。高嶺の花を狙うより現実的、とばかりこれでけっこう人気がある。
「荷物、届いてます」
「あ。ありがとう」
「ちょっと、重いんで……」
「あ、いいすよ。俺、取りに行きます」
 気軽に言うのも人気の秘訣らしい。そんな新庄に彼女はぺこりと頭を下げ、それからさりげなく秘書室内に視線を巡らした。
 思わず新庄は内心で苦笑してしまう。今日の室長は忙しいからここにはいないよ、そんなことを言いたくなる自分に。
 昨日から社長が出張に出ていた。珍しく室長を同行していないのは他にも仕事があふれているせいだ。おかげで今日の室長は忙しいやら心あらずやらで何か周りまでが気ぜわしい。
 廊下に出た新庄は、それでも頑張ってここまで持ってきてくれたのだろう荷物を受け取り、いったい何かと首をひねって中へと戻った。
 すでに、嫌な予感がしている。何しろ重たい。嫌々視線を小包のラベルに走らせる。思わず目をそらしたくなった。
「どうした、新庄」
 こんな忙しい状況にあっても室長は周囲に目を配ることを忘れない。そんな彼を新庄はいつも感嘆の目で見てしまう。
「なんか嫌なもんが届いた気がして」
 溜息と共に言ってしまった。諦めて仕事中だというのにばりばりと箱の蓋を開ければ。
「やっぱりぃぃぃッ」
 悲鳴のような溜息のような絶望の声だった。
「だから、どうしたんだ?」
 少しばかり茶化すようなカイルの声に新庄は実に情けない顔を向ける。
「室長……」
 すがりついてしまいたくなる。カイルが顔を顰めて一歩下がったのに、わざとらしい半泣きの顔を浮かべた。
「林檎、なんですよ、これ」
「それは、見ればわかるな」
「そりゃそうでしょうけど。でもこの量は……」
「半端じゃないな」
「でしょう!」
 大きな段ボール箱いっぱいに、つやつやとした林檎が詰まっていた。それはもう、みっしりと。
「お袋の実家が、林檎農家なんですよ。要らないって言ってんのに」
 溜息と共にまた林檎を見つめてしまう。新庄の嘆きも当然かもしれない。独身男性が林檎を何kgももらってもどうしようもない。いささか罰当たりではあるが、事実だった。
「まぁ、そう言うなよ」
 慰めの言葉が上滑りするのをカイルも理解しないではなかったけれど、それにしても新庄の肩の落とし具合は酷すぎた。
「食べきれないようだったら、配ったらどうだ」
 辺りにいる社員に向けひらひらとカイルは手を振って見せる。
「そうさせてもらいますけど。それにしたって余りますって」
「みたいだなぁ」
 確かに二つ三つばかり数人に配ってもなくなる量ではなかった。
「余分に分けてもらってもいいかな」
 思わず言ってしまったのは、新庄に対する同情だったかもしれない。半分ほどは。残りは彼がいない気晴らし。
「え、もちろんですって! もう、十個でも二十個でも!」
 新庄が顔を輝かせるのに、わずかばかり良心が痛む。だからカイルはひとつうなずき決めた。
「じゃあ、二十個ばかり。いいかな」
「感激です。でも室長、そんなにどうすんですか。そりゃ林檎ですから持ちますけど」
 保存がきくとはいえ、二十個はいくらなんでも多くはないか、そう新庄が疑問に思うのも無理はない。
「今日はカイザーがいないから。私も多少は時間があるしケーキでも焼いてくるよ。明日のおやつにね」
 あっさり言ったカイルに向けて上がった声は、新庄のものであろうはずもないほど華やいでいた。
「室長!」
 大きな女性の声に思わず身構えてしまうカイルが振り向く。余計、構えてしまった。目の前に彼女は立っていた。
「ケーキなんて、焼くんですか!」
 詰問調でありながら、おそらくは質問だろう。
「焼くよ」
「ずるいです」
「……どこが?」
 何を言いだすのかまるで理解できない、そんな顔を取り繕ってカイルは言う。実のところわかってはいるのだ。自分に菓子作りなどされては立場がない、そう言いたいに違いない。
「室長がケーキ焼いたりしたら、私たち女性陣は立場がありません!」
 案の定の言葉にカイルも苦笑するしかない。だから取って置きの言葉で反撃を試みた。
「ドイツ人は男でもケーキ作りが趣味って、ずいぶんいるんだよ」
 ことさら国籍の差を言い立てないカイルだからこそ、こういうときの一言は効く。やはり彼女は不満そうに口を尖らせて黙った。
「さ、仕事に戻って。さっき営業一課で呼んでたんじゃなかったかな」
「うわ、聞いてました?」
「それが仕事だからね」
 苦笑するカイルに舌を出し彼女は慌てて走り出す。本当は、秘書室の社員が思っているほど忙しくはない。カイルがそわそわとしているから、社員はそう思い込んでしまっただけだった。
 ――落ち着かない。
 自分のデスクに戻った途端、そう思っては内心でカイルは笑ってしまう。元々このデスクに座ることはあまりない。
 普段だったら、社長室内にあるデスクにいる。彼が不在の今、勝手に入る用もないので秘書室内のデスクにいるものの、やはりそれが日常ではない気がして落ち着かなかった。
 社員たちの走り回る音を聞きながら、カイルは一人彼の不在を思う。自分が同行するわけには行かない程度には忙しい。けれど、嫌だった。
 ――寂しいのは、俺かな。
 苦笑まじりの呟きを耳にするものは誰もいなかった。

 一人でする食事は味気ない。夏樹はカイルが家事を好きなのだと思っているかもしれない。
 だが違うのだ。彼のために身の回りのことをするのが好きなのであって、自分ひとりだったらそれほど楽しいとも思わない。
 会社からの帰り道、買物を済ませたカイルは溜息まじりに台所に立つ。面白くもない食事の支度などする気にもなれなかったから、今夜の夕食は惣菜で済ませてしまった。
「どうしてるかな」
 彼も大人なのだから、心配するほうが筋違い。それくらいわかってはいる。けれどそれでも夏樹がどうしているか気にかかる。
 出張中、彼が電話やメールを送ってくることはない。あるとすれば業務連絡だ。それはカイルも同じこと。お互いの暗黙の了解だった。
 ちらり、携帯に目を向けてあるはずもない着信の印を探してしまう。それからきっぱりと視線を戻しカイルは林檎の皮を剥きはじめた。
「けっこうあるな」
 独り言がわびしく響く。それでも彼が喜ぶ顔が見たくてカイルは淡々と手を休めず働いた。

 ふんわりと、いい匂いがしていた。翌日のことである。今日は忙しさも薄れたのだろう、社員たちはそう思ったことだろう。
 事実は違う。ただ単純に夏樹が帰ってくるからカイルの機嫌がいいだけだった。
「お茶にしようか?」
 部下たちに声をかけ、カイルは持参のケーキを取り出す。物珍しそうに見ている顔もあれば、楽しみにしている顔もある。誰より見たい顔だけがないのが残念ではあるけれど、それはそれであとの楽しみに取っておく。
「新庄、切ってくれるか」
「俺ですか。無理です」
「きっぱり言うな」
「だって、無茶ッすよ。ケーキなんか切ったことないですもん」
 室長と、副室長の他愛ない掛け合いに女性社員が笑ってカイルの手から二台のケーキを取り上げた。
「わ、二つもあるんですか」
「一台じゃ、足りないだろうと思ってね」
 かなり大振りのケーキではある。けれど秘書室に行き渡らせるとなると、さすがに一台では足りない。
「あ、俺はちょっとでいいよ」
「俺も俺も」
 そんな男性陣の声が上がるのは織り込み済み。そうでなければカイルはもう一台余分に焼いたことだろう。
「わぁ、凄い。きれい」
 ケーキを切り分けていた女性から声が上がる。嬉々として女性陣は奪い合うよう皿を取っていく。全員に渡り、コーヒーが入ったところまでよくぞ待ったものだと思う。
「いただきます」
 新庄が感謝の眼差しを投げてきた。よほど、林檎を持て余していたらしい。
「なに、ついでだから」
 うっかりとした失言に、新庄がわずかに怪訝な目を向けてきた。
「あぁ、カイザーですか」
 あっさり言われ、反って拍子抜けしてしまう。過敏になる必要はないはずだけれど、夏樹の立場を考えれば失言などもってのほか、そう心しているカイルだった。
「室長ー。ずるいです」
 昨日も聞いた覚えがある非難を浴びてカイルは笑う。
「なにが?」
「だって、すごいおいしいです」
「それは良かった」
 見当違いの答えをあえてしてカイルは首をかしげた。処置なし、とばかり笑う女性たちの目を見ないふりをしてカイルはケーキを口に運ぶ。我ながら悪くはない出来だった。
「これ、チーズですよね?」
「そう、林檎のチーズケーキ、とでも言うのかな」
「やっぱりドイツの?」
「まぁ、どこにでもあるんじゃないかな。単純だし」
 言えば知りませんでした、と恨めしそうな視線。カイルは虚ろに笑う。どうも彼が帰ってくると思うだけではしゃいでしまう。
「レシピ教えてもらえます?」
「いいよ、メモあるかな」
「もしかして覚えてるんですか」
「簡単だからね」
 言ってしまってから臍を噛む。どうも失言続きだった。それに何食わぬ顔をしてカイルは出てきたメモ用紙にさらさらとペンを走らせた。
「あ、お帰りなさい」
 だから、ドアが開いたのに気づかなかった。華やかな社員たちの声に驚いて顔を上げれば、彼が立っていた。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
 何とか歓喜を表情に出さないよう、カイルは口許を引き締める。そんな彼を夏樹はわずかに目元を緩めて見ていた。
「お茶か?」
「はい、それほど忙しくはなかったので」
「いい」
 お前が把握しているなら弁解の必要はない。たった一言にそれだけの意味を持たせ夏樹は言う。無論、理解できるのはカイルだけだった。
「召し上がりますか」
 まだわずかに残っているケーキに視線を向けて問いかければ苦笑の気配。
「林檎?」
「はい。昨日、新庄から」
 昨日の顛末を簡単に語れば夏樹が新庄に視線を向ける。それが感謝だと新庄が理解する日はおそらく来ない。
「いかがですか」
「いらない」
「わかりました」
「どうせ……」
「はい?」
「もう一台、うちにあるんだろう」
「お見通しでしたか」
「まぁな」
 苦笑に苦笑で応えカイルはせめてとばかりコーヒーだけを淹れに立つ。
「なにがある」
 カイルの背に夏樹の言葉が追いすがる。それだけで昨夜の寂しさなど、薄れて消えてなくなってしまう。彼も同じだと、知ったから。夏樹の声を心地良く聞きながら振り返りそっと笑みを浮かべた。
「Gedeckter Apfelkuchen」
「ドイツ語で言うな」
「ですが」
「確かに、蓋をしたアップルケーキじゃ間抜けだがな」
 わざとらしく体ごとこちらに向いた夏樹。カイルだけに見える場所でカイルにだけ向けて、夏樹は笑った。




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