ちらり、夏樹が見上げてくる。その、妙に子供じみた仕種にカイルは微笑し彼をなだめる。
「少しでいいですから」
 不承不承肯いた彼は、またしばらくすると縋るような目で見上げてくる。
「もうすこし」
 なだめすかしつつもう少しだけ。
「もうヤだ」
 ついに箸を投げられてしまった。
「ええ、いいですよ、よく食べましたね」
 子供みたいに褒められて、夏樹はふいとあらぬ方。
 とてもおいしい食事なのに、彼の弱った体と弱った胃ではとても食べきれる量ではない。
 初めからそれはわかっていたから板場に頼んで量を減らしてもらっている。そうしてさえ食べ切れなかった事実にカイルの胸は痛んだ。
 そんな風にして食事を終えたのがだいぶ前。
 寝る前にもう一度風呂に入ると言った彼も、体が温まっているうちに布団に横になった。
 カイルは独り、暗い次の間にひかれた布団と彼の姿を横目で見ながらぼうっとしている。
 疲れたわけではない。
 夏樹とともにいることが出来、そして今ここに二人きり。楽しくないわけ、幸せでないわけが、ない。それでもあの細い肩……。
 思い出すだけでぎゅっと胃が縮みそうになったカイルの耳に届いた小さな声。
「カイザー!」
 両手で細い肩を自分で抱え布団の上で、彼が震えている。
 薄暗い部屋の中、そうしている夏樹がぞっとするほど頼りなく見える。職場での大きな夏樹ではない。自宅で見せる素直な彼の姿でもない。我と我が身を抱く夏樹の恐怖がカイルに移ってしまったよう、カイルの指が震えた。
「どうしました」
 それでもカイルは静かな声で語りかける。そうすることで彼の心が静まることを願って。夏樹が視線を上げた。
 ふいに投げかけられた、体。わずかにカイルは逡巡する。自分の行為が彼を傷つけることを恐れて。けれどカイルは彼を抱きしめた。頼ってもいいものがひとつ、ここにある。それを教えるように。夏樹の爪が背中をえぐった。
「怖い夢でも、見たのですね」
 腕の中、肯く彼の肩がまだ震えている。腕の中、包み込むよう抱き取った夏樹を安心させたくて、何度も何度も髪を撫でた。
 その額が嫌な汗に濡れている。浴衣の袖でそっとぬぐっては見上げてきた目に、笑った。
「大丈夫。ここにいます」
 このためだけに自分はいる。愛情を交わしあった者としてではなく、本心をさらすことができる友の一人として。胸を焼く痛みなど関係はなかった。彼が安堵するならばそれでいい。
「あなたが眠るまで、ここにいます」
 不安げな表情が笑いの形にゆがむ、無理に。そんな顔をする必要はない。言いたかったけれど唇からは言葉が出てこない。だからかすかに頬に触れた。
「あなたが目覚めた時もここに。約束します」
 こわばった体をそっと横たえれば彼は小さく首を振る。まるで幼い子供がいやいやをするようだった。背中に回したままの腕さえほどかない。
「このまま。いや?」
 聞き取れないほどかすかな声がそう言った。
「全然」
 夏樹の隣に横になればわずかばかり照れた顔をする。
「昔に戻ったみたいですね」
 中学生の頃、年齢よりずっと幼かった彼はよくそうしてカイルの体に触れながら眠ってしまったものだった。それを思い出したのだろう、ほんの少し穏やかな顔になった夏樹が微笑った。

「カイル! 背中……」
 朝の薄明かりの中、夏樹は照れ臭そうに黙ったまま背を向け丹前を羽織った。
 そんな姿が昨日の晩のあの危うさをいい方に残していてカイルは独り、微笑する。もっと頼ってくれていい、と。
 そんな風に思いつつカイル自身も背を向け、乱れた浴衣を直そうと肩から落としたのだった。
「ああ、大丈夫ですよ」
 カイルは笑う。その背中にぎりぎりと立てられた爪の、跡。まだうっすらと血さえ滲んでいる。
「……ごめん」
 言いつつ夏樹はそっと傷跡に触れていく。きれいな指先のしっとりとした感触に痛みではないものを感じ、ぞくりとした。
「あ……痛いよな。悪い」
 いえ、とだけ答え、こんな時はこの人の鈍さに感謝したくなる、とカイルは思ってしまう。
 これ以上触れられていたらどうにかなってしまいそうでカイルは早々に浴衣を直した。
「なぁ、カイル。俺のこと好き?」
「えぇ大好きですよ」
 子供に答えるように。一瞬たりともどきりとした事など感じさせないくらい、自然に。
「ふぅん。――風呂入ってくる」
 言葉だけはそっけなく、それでも幾分は嬉しいのか夏樹は口元に笑みを浮かべたままそれだけを言っては行ってしまった。
 なんだったのだろう、なぜ急に。そんな思いがカイルの頭の中を駆け巡っては疑惑を残す。もしや、まさか、と。そしてそのこと自体をカイルは強く首を振って否定した。

 けれど、それだけでは終わらなかった。
 あれから毎日、ただただ怠惰に過ぎていく。風呂につかり、食事をし、本を読み耽る。その繰り返し。
 しかし変わった事もある。カイルの姿が見えなくなるのを夏樹はことのほか嫌がるようになった。
「カイル。背中」
 それどころか、そう言っては胡座で本を読むカイルの背中に寄りかかり、頬を寄せ自分も本に没頭する。
 背中に感じる彼のぬくもりにどきまぎし、カイルは難解な本を読めなくなった。諦めて軽い小説を読んでみたものの、何度も同じ行を読む有様。
 時にはそのまま前に回って膝枕で寝てしまったりもする。以前はあったことだった。無論、子供の頃の話である。さすがに互いに成人して以来このような行動を彼がとった覚えはない。
 カイルの膝を抱えて眠る彼の姿はなんともいえず可愛らしいものがあったのだけれど、カイルは急な夏樹の変化がなににきざしたものかわからずにいる。
 失恋の痛みに、長年をともにしてきた自分に甘えているだけならいい、カイルはそう思いながらもそれ以上を望んでしまいたくて、困っている。それくらい夏樹はカイルの側に居たがった。
 変わった事は他にもある。毎晩夏樹はカイルの腕の中で眠るようになった。
 そうでなければ彼は眠れない。カイルの息遣いを聴き、体温を感じ、包み込まれて眠る。
 そうしていないと夏樹は眠れない。幼子が甘えるように。それならそれでいい。カイルは思う。
 夏樹はこういう人なのだとカイルは知っているから。会社の経営者としての冷徹な面もこの人ならこうして甘えているのもまた、この人自身。
 そのことを本人よりずっとよくわかっている。夏樹という人は誰一人としてそんな事を強要しなかったにもかかわらず、この家を、会社を継ぐのは自分だ、そう幼い頃から自らを律していたそうだ。
 人に聞くまでもない、たぶんそうだったのだろうとカイルにもわかる。
 初めて会ったとき夏樹は十四歳だった。それなのになにか随分達観した所があった。諦めとは違う、後継ぎとしての責任、かも知れない。
 子供である事をやめ、子供時代を無くした人だった。
 カイル自身十代の頃からそれほど明確にわかっていたわけではない。それでも共にすごす時間が多くなればなるほど、夏樹の中に取り残された小さな子供がいるような気がして仕方ない。
 独りきりで寂しくて泣いている幼子。本人さえもたぶん、認めていないだろう幼い心。
 それが会社の経営という生温さを許さない仕事のうちにだんだんと押し込められ、今となってはそんな一面があるという事はカイルしか知らない。
 だからこそ自分しかいない、と思う。夏樹の「カイザー」の称号にふさわしい人となりに惹かれ、どんな子供にも出来ないほど無邪気な心にも惹かれる。
 両方のまったく異なった人柄を両方とも愛している。いや、そのすべてをあわせて彼だ、ということをカイルは知っている。どちらか一方だけで彼を語ることなど出来はしないのだ、と。
 そして夏樹は繰り返す。
「俺のこと好き?」
 と。
 それこそ日に何度も。不安でたまらないように、何度も、何度も。毎日、毎日。
「なぁ、俺のこと好き?」
 今日これで何度目だろう。少し苛ついたような、声。
 明日は帰らなければならない、という晩だった。硫黄を含んだ温泉の熱に、まだ熱い体をもてあまし気味のカイルは縁廊下に体をさらしている。胡座をかいて、許しを貰った煙草と共に。
 そしてその、背中。頬を寄せカイルの鼓動を聞き、その鼓動からどんな嘘さえも聞き逃さないとばかりの夏樹がいる。
「ええ、大好きですよ」
 繰り返される答え。苛ついた態度を示さないよう心しつつも指先は煙草をねじ消した。
 繰り返される問いと答え。そして決まってその後の無関心。それが今は、こなかった。
「嘘、つくな」
 まるで恋人の不実を責めるよう。所在無くもてあましていたであろう腕がカイルにきつく、しがみつく。背中からカイルを抱いた夏樹の指先は少し、震えていた。
「どうして嘘なんか。本当に、大好きですよ」
 なだめるように引き離し彼と向き合えば今にも涙ぐみそうな目で首を振る。それから黙って夏樹はカイルに体を預けた。
「カイザー?」
「……いいかげん、はくじょーしろ」
「だから嘘なんて言ってませんよ」
 白状、その言葉に一瞬心臓が跳ね上がり、それを夏樹に感づかれたかと思うとさらに落ち着かない。軽く抱き返していた腕に妙に力が入った。
「俺のことが好きなのかって訊いてるだろッ」
「カイザー、ですから……」
「嘘じゃなければわざと意味を取り違えて答えてる。違うとは言わせない」
 跳ね上げた顔からその勢いで前髪が後ろに流れ、傷一つない綺麗な額が目に飛び込んでくる。その下の目がきつく、きつくカイルを睨んでいた。
「俺をそう言う意味で好きなのか、訊いているんだ」
「愛しているのか、と?」
 それ以外になにがある、夏樹は睨んだ目の色そのままに呟き、けれどわずかに顔をそらした。
「そんな事を聞いてどうするんです? カイザー」
 答えはすぐに返ってくると思った。それなのに彼は。潔い彼のめずらしい、躊躇。
 体も離れていくと、思った。ためらうようにそうっと寄せられた額が肩口にある。
 どうしたいのかはわからない。それでも夏樹を抱いた腕に静かに力をこめ抱きしめながら、その柔らかい髪を指で梳いた。最後になるかも、知れなかったから。
「もし、もしもカイルが俺のこと、好きなら、こんな風にしてちゃだめだから」
「仮にそうであったとしてもそんな事はありません」
「利用してるみたいで、ヤなんだよっ」
 言葉の激しさとは裏腹に縋りつくような腕が背中を抱く。
 恋人の、というよりもそれは迷子になった子供がめぐり会えた母親からもう二度と離れまいというような。
「利用でも、かまいません」
 彼の耳元で呟き、カイルは目を閉じた。婉曲な肯定を夏樹は決して聞き逃さないだろう。
「よく、ない」
「私が良いと言っているんです。かまいません」
 傍目に見ればなんて仲のいい恋人同士のようだろう。そんな考えがちらりと浮かびカイルは自嘲する。
 次第に夏樹の腕から力が抜けてはいつのまにか、カイルの胡座にすっぽりと抱きこまれるようになっている。たいして違うわけでもない体格なのにこんな時、夏樹はなんて細く、頼りないのだろう。
 耳を押し付けカイルの鼓動を聞く姿の幼さ。不安でたまらないとうごめく指先が見えた。
「やっぱ、よくない」
「いいんですよ」
 もう、何度かこの答えも繰り返した。そのたびにそっと抱きしめながら。
「俺はこうしてるの、好きだから。だから、白状しろよ」
 ぽつり、夏樹が言った。
「意味が、よくわかりませんが」
「いっそ言われれば、こうしてられないって諦めもつく」
 なぜですか、とは訊けなかった。答えは想像できたから。
「お前に好きだって言われても、応えられない。なのにこうしてるのは卑怯だ。わかってるのに利用するのは……もっと卑怯だ」
 だから言えというのか。想像していた答えとはいえはっきり言われるのはこたえた。




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