思わず苦笑のもれたカイルを視線に捉えた夏樹がきつく睨む。それに詫びるよう仄かに笑えば目をそらす。
「カイル……」
 早く言えとせかす声にも言葉はない。ただ黙ったまま彼の体を抱いていた。
「言えよ」
「いつまでも、こうしてあなたが甘えてくださるなら」
「そんな……」
 カイルはようやく腹を決める。夏樹の目を覗き込んだカイルの目は確かに笑っていた。
「取引をしましょう」
「取引?」
「ええ。あなたはこうして甘える権利。私はその代わり口説きます」
「だからッ」
「応えられない、というのは今聞きました。でもこの先ずっとそうとは限らないでしょう?」
 気は長い方です。カイルは言い、笑った。
「でも」
「口説かれるのも、お嫌ですか?」
「……そんな事は、ないと、思う」
「ならば商談成立ですね」
「いいのかよ」
「よくなければ言いませんよ」
「じゃあ……」
 きっと彼は顔を上げ、正面からカイルの目を見据えた。
 ゆらり、蒼の目が揺らめく。蒼の目の中、カイルの金の目が映っている。
「言え」
 目を伏せる事もなく、夏樹は言った。なにかに決心をするように。
 そんな彼をカイルは腕の中、抱きこんだ。この目を見たままなんて、とても言えそうになかったから。
「愛しています」
 指先から夏樹の鼓動が伝わってくる。
 あたたかい、体。寄り添う彼も今こうして自分の鼓動を聞いているのか、そう、それだけで充分。今は。
「やっぱ、お前、不利だ」
 背中に回されたまま、どうしようかと迷っていた指が不意に背中の布地を握り締める。
「俺……お前のその声、好きだ」
 なんて事をこの人は言ってくれるのだろう。そもそも断られて当然の取引だったはずなのに、耳元でささやく声が好きだなんていうことさえ言ってくれる。
 長い時間を共にすごした自分の前で、彼はこれほどまでに無防備だ。その事がなににも増して、嬉しい。
「だから、俺に都合がよすぎる」
「いいんです。カイザー」
 これ以上今はなにを望もう。愛しい人が今この瞬間、腕の中にいるというのに。
「……カイザーって、言うな」
「え」
「カイザーって呼ばれながら口説かれたって、嬉しくない」
 では他の呼び方で口説いたら彼は嬉しいというのだろうか。ちらりと頭の隅を掠めた思いに内心で苦笑が漏れる。今はこれでいいと思った矢先だったのに、と。
「名前、呼べよ。昔はそうしてただろ」
 わずかに恥ずかしそうな、声。いいと思ったはずなのにどうかなりそうだ。
「夏樹(なつき)さん」
「さん、つけんな」
「夏樹……?」
「そうじゃ、ないっ」
 じれたように彼が言う。違う違うと頭を振るのも腕の中にいてはカイルの胸に頬を擦りつけるようで。
「……夏樹(かじゅ)」
 ためらった末にそう、呼んだ。
 今まで彼が仲のいい従兄にしか許してこなかった、呼び名。怒られるかもしれない、思いつつ呼んだけれど答えは。
 満足そうな、溜息だった。だからもう一度。
「夏樹」
「なんだよ」
「……なんでも」
「なんでもないなら呼ぶな」
 腕の中、彼の顔は見えなかったけれどきっと赤くなっていたに違いない。
 めずらしいほどに照れた声が言葉のきつさを裏切っていたから。
「夏樹」
「だからなんだよ」
「……愛してます」
「……うん」
 なんとなく満足そうに額を押し付けてくる彼の体をカイルはそっと抱きしめた。
「……いつ、気がついたんです?」
「三日くらい、前かな」
 ためらいがちな彼の答えにそう、それでいいと胸のうち安堵する。
 この十五年、決して気がつかれはしなかった、そんな自信があるから。
 たとえばずっと幼い頃、彼がこの想いに気づいたとしたなら彼はきっと傷ついただろう。
 初めてできたなんの打算もない友が自分に抱いた想いに気づいたなら。だからこそ隠し通してきたのだから。
「……お前、優しすぎたから、さ」
 そう彼は少し、笑った気がした。
「なんでなにも言わなかったんだよ。俺が訊かなきゃ言う気、なかっただろ?」
「失恋の痛みにつけ込むような真似はしたくありませんでしたから」
「口説いたらくらっときたかもよ」
「それが嫌だったんですよ」
「え」
「あなたが独りでも楽しい、私と一緒ならばもっと幸せだ、そう思って欲しい。少々高望みですが」
「……恋愛感情ではないけど、そうだ、と……思う」
「焦らなくていいですよ。気は長いと言ったでしょう?」
 いつか、その日が来るまで。なにせこうして腕に抱くまで十五年待ったのだから。
「カイル」
「はい?」
 不意に夏樹は顔を上げじっとカイルの目を見つめる。
 あれほどやつれきっていた頬もこの旅行で随分元に戻った。白い頬、ほんのりと赤い唇。それが今これほどの目の前にあることに動揺する。
「キスしよう」
「は?」
 だから何を言われたのかわからなかった。まじまじと夏樹を見返し、我ながら間抜けな答えだと呆れつつ笑ってしまった。
「なんだよっ」
「そんな真似は似合いませんよ」
 これ以上間近で見ていたらその誘惑に屈してしまいそうでカイルは彼を腕の中に抱きこんでしまう。
「どんなにあなたに有利な取引に見えても、私は今とても幸せですよ」
 だからそんな事をする必要はない、と。
「……したく、ない?」
「したいですよ、とてもね。ですが、あなたが望んでいないキスをしたいとは、思いません。あなたが自分の意思で私を欲しいと思ってくれる日まで取っておきますよ」
 カイルを利用しているのではないか、彼はまだそうした不安があるらしい。
 利用しているならせめてくちづけくらい許そう、と。大事な大事な想い人にそんな真似はさせたくなかった。
「ごめん」
「お気持ちだけ、嬉しく頂きますね」
「うん……」
 軽く目を伏せたまま夏樹が笑う。ひっそりと、笑う。
 そんな彼の髪をカイルは指で梳いていく。しっとりとした猫のような手触りの、髪。黒い絹糸を束ねたよりもまだ艶やかで、綺麗だ。
 髪に触れるのは体の関係ができてからだ、そう言う。けれど夏樹は髪に触れられるのを嫌がりはしなかったし、それどころか心地よさそうに体の力を抜いては預けてくれる。
 そんなところがまだうぶで子供なところなのかもしれない。そう思っていたら夏樹が小さくあくびをした。
「そろそろ休みましょうか」
 声をかければ少し、背を抱く腕に力が入る。まだもう少し、離れたくない、と。
「お嫌でなければ昨日までと同じように、眠りましょう」
 腕に抱いたまま。朝まで抱き合って、ぬくもりと共に。夏樹はかすかに腕の中、肯いた。

 春が過ぎ、夏の初め。
 そろそろ夏樹の痛みも癒えてはいる。けれどいつも側にカイルがいることに慣れてしまったものか依然、彼はカイルの部屋で生活していた。
 同じ玄関から部屋に入り、それから図書室の階段を使って自分の部屋へ。着替えを済ませまた上がってくる。食事も風呂も、眠るのさえ同じ部屋で。
 けれどあれから事態はまったくと言っていいほど進んではいなかった。
 進んでいないからこそ、こうして共にいるのかもしれない。
 出勤は大抵一緒だ。カイルが運転する車に乗っていくのだから当たり前といえば当たり前。
 その日は朝から忙しかった。
 普段は夏樹とカイルと、社長室に二人で仕事をしている。
 秘書室のほかの人員はそれぞれ自分の専任の上司の側か、もしくは数人で一人の上司につくため秘書室にデスクがある。カイルはそれが社長室にもあるというだけだ。
 取り立ててすぐに使わない書類やなにかは秘書室のデスクかキャビネットにあるのだけれど、必要なものは社長室のデスクかそれでなければコンピュータの端末にある、というわけだ。
 だから本来立ち上がって行き来するのはカイルだけであるはずなのに、今日はばたばたと入れ替わり立ち代り人が出入りする。
 そんな日もたまにはある、ということか。ゴールデンウィークが近い所為かもしれない。
「カイザー」
 電話を置いたカイルが呼びかけた。名前を呼ぶ許しを貰ってはいても仕事は仕事、と社内では相変わらずそう呼びかける。それが好もしいとでも言うよう、夏樹は目を細める。
「ん」
 本来どたばたと忙しいのが癇に障るほうである夏樹は今日、すこぶる機嫌が悪い。
「札幌工場が直接指示を仰ぎたい事がある、と言ってきましたが……」
 カイルが言うなり夏樹はじろりと睨んだ。
「できれば二三日中に来てもらえないか、と」
「無理なのはわかってるだろう、カイル」
「ええ」
「お前が行け。用は足りるはずだ」
「はい」
 ということになった。

 カイルの肩書きは秘書室長、である。
 が、カイザーの代理として一人で取引先や自社工場に赴く事も多い。事実上の副社長であった。
 今回などもそのケースだった。
 実際カイザーに是非と言われていてもカイルで充分な事の方が多いのだ。
 多忙な夏樹がカイルを重宝がるのはそういう意味もあったのだった。
 北海道や大阪でもよほどのことがない限り日帰りをする。そんなカイルを社員は半ば賞賛、半ば呆れた視線で見ている。仕事熱心にもほどがある、と言うところだろうか。事実は単純だ。単に彼の側を離れたくないだけ。たとえ友の一人であったとしても。
 なのだが、今度はそうは行かないようだ。それが一晩でも済みそうにないとわかりカイルは溜息をつく。
 必要書類をそろえ二泊分の宿を取り終えた頃終業の鐘が鳴っていた。

 向こうの始業時間には到着しておきたかったから、朝は早い。
 そっとベッドを抜け出したつもりだったのに夏樹もまた目を覚ましていた。
「まだ眠っていて、いいですよ」
 言えば、いいと小さく呟いた。あまりよく眠れなかったのかもしれない。
 昨夜のうちに用意はすべて済んでいたから、濃いコーヒーをゆっくり飲んで目を覚ます事にする。
「飲みますか? 夏樹」
「ん」
 ダイニングテーブル代わりのカウンターに、彼が頬杖をついて自分を見ている、その視線を感じる。
 なにを話すわけでもなく黙って隣に座ってカップを置いた。
 いい香りがする。酸味の少ない苦めのコーヒーが二人共通の好みだった。
「それじゃあ……」
「うん」
 時間だからと立ち上がれば彼もまた立ち上がる。どうやら玄関まで送ってくれるらしい。
「行ってきます」
 気をつけて。そう応じた夏樹は、カイルにはなぜかわからないまま、あいまいな笑みを浮かべていた。




モドル   ススム   本編目次に