この数日、夏樹の機嫌がすこぶる良くない。カイルにはそれが忙しいせいだ、とわかってはいる物の、やはり気がかりでは、ある。
 昨日も残業帰りの遅い夕食のあと、リビングを薄暗くして彼は座っていた。
 フロアランプのほの明るさだけでみなとみらいの夜景を見ていた。
 邪魔をしないよう、カイルはそれをダイニングからそっと眺めている。彼がそんな風に夜景を見ているとき、それは何か考え事をしているか、ただ疲れてぼうっとしていたいかだと知っているから。
 仄かなライトが彼の髪にあたっているのを見るのが、実はカイルは好きだった。
 適当に置かれたビーズクッションを抱いて、それに顎を乗せている。そんな子供じみた仕種。眺めるともなく見ている視線のさまよわせ具合。時折つく大きな溜息。
 疲れているな、しみじみ思う。
 帰宅途中に寄り道をすることも最近は絶えてない。
「どこか、寄って行く?」
 そう、車の中から尋ねても
「寒いからやだ」
 と、取り付く島もない。
 気分転換にでもなれば、と思って訊いているのだが、これではいかなカイルといえどもどうしようもなかった。
 夏樹はまだ外を眺めている。
 時間ももう、遅い。
「夏樹」
 邪魔はしたくない物の、夜更かしは疲れた体に障る。そっと声をかければ睨まれた。
「もう、寝たら」
 伸ばした指先で頬に触れればずいぶんと冷たい。
「触んな」
 そう、夏樹はうるさげに顔を背けた。
「わかってる。もう寝るから」
 言い訳めいた口調なのは、自分のしたことが少しはやましいのだろうか。カイルはわずかに苦笑したが、夏樹はそれを見てもいなかった。
「何か温かいものでも淹れようか」
「いい、先寝ろよ。俺もすぐ行くから」
 これ以上言っても余計機嫌が悪くなるだけ、とカイルは一人寝室へと引き取る。無論、夏樹はいつまで経っても来なかった。

 そんなことがあったのが昨日のこと。今日は夏樹の負担をいくらかなりとも減らしたい、とカイルが奮起したせいか残業、というほどの残業もせずに済んだ。
 これで多少は彼の機嫌も、と思ったのだが、そんなカイルの気遣いなどどこを吹く風と相変わらず機嫌は悪い。
「出かける」
 夕食後にそれだけを言ってふらり、出かけてしまうのだから、カイルに出来るのはもう溜息をつくことだけ。
 こんな態度の彼は別段珍しいものではない。疲労が溜まると、会社でそれを顔に出さない分、帰ってきてからこういうことになる。それはこうして彼を恋人、と呼ぶようになる以前も今も変わらない。
 それだけ夏樹にとって自分は信頼に値するのだ、と思ってはいるのだが、つらくない、と言えばそれは嘘になることもまた、確かではある。
 ただ、こんな態度を取れる相手は自分しかいないということがわかっているからこそ、耐えられる。
 昔からそうだった。
 少年時代の夏樹は人付き合いも苦手で、何より言葉を弄することがとりわけ苦手だった。
 そんなときに黙っていても自分のしたいこと、したくないことをわかってくれるカイル、という存在が彼にとってどれだけ大きなものだったか。
「懐かしいな」
 一人きりのカイルは珍しく夏樹好みのジンをグラスに注ぎ、舐めるように飲んでいた。
 ジン特有の香りがふわりと香る。彼の唇から良く香っている、それ。
 何の気なしに選んだ酒の、その選択ミスに知らずカイルは苦笑した。
 まだあれは彼が中学生だった頃。今ほど親しくもなく彼の警戒心が解けてもいなかった頃。
 たぶん今日の彼の疲労など比べ物にならないくらい、夏樹は疲れていた。あとから聞けば一日中、先輩やら教師やら次から次へと話しかけられ、必要なことだとわかってはいても疲れたのだ、と言う。
 いかにもあの人らしい疲れ方だった。
 また具合の悪いときに彼の家を訪問してしまったものだ、とカイルは困ったのだが、帰れとも言われないのでつい、居座ってしまったのだった。
 彼の部屋になっている離れで二人、何も話さずにいた。
 カイルを意識に上らせず、夏樹は読んでいるのかいないのか、ただ本を眺めてはページを繰っている。
 時折あくびなどしつつ。
 帰った方が、と思いはしたが、かといって「帰ってほしくなさそう」なのだ、彼は。
 視界の端で見れば少しばかり眠たげに前髪をかきあげ。
「夏樹さん」
 名だけを呼んで背中を差し出した。なぜそんなことをする気になったのか、今思えばわからない。
 微かに口元だけで彼が笑い、背中に寄りかかってはいつしか眠った。
 どれほどそうしていただろうか、目覚めた夏樹の機嫌が斜めを通り越しているのにカイルは
「また明日」
 それだけを言って帰った。
 それからだった。急速に、と言っていいほどの速さで親しくなったのは。
 彼の機嫌の悪さがある場面では照れ隠しなのだ、と悟ったのもそのときだった気がする。
「今は違うよな」
 そう思えば改めて溜息も出よう、と言うもの。
 まったく照れ隠しではない、とは言えないものの、何に照れているのか、それがわからない。確かに昨日は単純に機嫌が悪かった。今日はそれとはどこか、違う。
 だいたい「触るな」と拒絶されるほどのことをした覚えもない。
 何度もついた溜息をまた漏らし、手持ち無沙汰なカイルは煙草に火をつけ。
 夏樹が帰ってきたのは三本を灰にし、四本目も半ば煙になった頃だった。
「手、出せ」
 むっつりと隣に座ってそれだけを言う。
 言われるままに出そうとしたその手には煙草。慌てて反対の手に持ち替えようとするのを奪われた。
「夏樹」
「なに」
 答えた声はくわえ煙草にくぐもって。
「……なんでもないよ」
 稀に見せる彼の、どこかエロティックな仕種に思わずカイルは笑みを浮かべ、それを夏樹は睨んで見せる。それはカイルが何を考えたかわかっている、と言うことではあったけれど、煙草はそのまま彼の唇に挟まれたまま。
 そのまま夏樹はポケットから何やらを取り出し蓋を開け。
「夏樹?」
「うるさい。黙ってろよ」
 今度こそは正真正銘の照れ隠し。彼が手にしているチューブにはまだ買ってきたばかりのシールがついていた。
「買いに行ってくれてたの」
「黙れ」
「嬉しいな、と思って」
「うるさい」
「夏樹……」
「しつこい」
 悪口雑言を口にしつつ夏樹はカイルの手をとってはわざわざ買いに行ったハンドクリームを塗っていた。
 彼の指がカイルの荒れた手にクリームを塗りこんでいく。そっと包んでくれた手は体温と言う以上に温かかった。
 言葉より雄弁な彼の態度。当り散らしたのはそれがカイルだから、と。そうしても許してくれるから、と。そして決して口にはしない彼の想いも。
「荒れた手で触んな。痛ェんだよ」
 両手にクリームを塗り終えた夏樹はそれだけをカイルとは視線を合わせずに言い、煙草をねじ消しては立ち上がる。
 そしてもう何も言わずに薄暗いリビングの気に入りの場所へと。ドアをくぐるその瞬間、振り返った彼の口元には確かに笑みが浮かんでいた。




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