中高一貫の紅葉坂では、中等部の修学旅行は三年生の春だった。ゴールデンウィークを過ぎ、観光シーズンが始まる直前が中学生活最大のイベントだ。
 とはいえ、よほどの事情がない限り、高校三年間も同じ面子で過ごすのだ。いわゆる「修学旅行」らしい雰囲気など欠片もない。それを言うならば卒業式だとて、とりあえず行うだけで厳粛さなどほとんどないに等しい。
「京都の良さが中学生にわかるとは思えません」
 とは誰が言ったのか定かではない。数代前の教師の一人だとはいうが、それだとて本当か知れたものではない。
 もっとも、教師も生徒も内心ではそのとおりだと思っているからこそ、紅葉坂中学の修学旅行は定番の京都奈良ではなかった。
「なぁ、水着持ってきた?」
「持ってきたけど。泳げんの、ほんとに」
「時間があればねー」
 空港から降り立つなり嬉々としてクラスメイトが騒ぎ出す。夏樹は少し、騒ぎに乗れないでいた。
「マジかよ、雨!」
 空を仰げばぽつり、雫が滴ってくる。これで泳がなくとも済む、と夏樹はほっとする。泳ぐのは嫌いではなかったし、遊びたいとも思ってはいる。
 でも、クラスメイトと騒ぐのがやはり、苦手だ。向こうも自分を仲間ではない、と認識しているのかあまり話しかけてはこない。
 それで疎外感を持つことはなかった。同学年に親しい友達がいないだけであって別段、友達がいないわけではない。
 それでもこんな風に学年だけで行動するときはなんとなく寂しくはあった。いまごろ彼は授業中だろうか。
 ちらり、と携帯に目を走らせる。ふ、と夏樹の目元が緩んだ。引率の教師の監視の目をかいくぐってメールを読む。
「Gute Reise.」
 実に短いドイツ語だった。この程度ならば辞書も何も要らない。そして送り主の名を見る必要すらもない。こんなメールを送ってくるのは一人しかいない。
「どうしたの、水野?」
「なんでもない。なんか……」
「うん?」
「……あったように、見えた?」
「嬉しそうだった。そんな感じ」
 言ってクラスメイトは不思議そうな顔をする。つられて夏樹は首をかしげた。
「お前でも、そんな顔すんだなって思って。実は旅行、楽しみだったりする?」
「ちょっとは」
 煮え切らない夏樹の言葉に素直じゃない、とクラスメイトが笑って騒ぐ。少しだけ馴染めた気がした。夏樹は心の中でコンラートに感謝する。きっとそのようなことを意図して送ってきたわけではないだろうけれど。
 まるで夏樹の心の動きのよう、空は晴れはじめた。歓声がいっそう酷くなる。煩わしいとは、夏樹は思わなかった。
 熱気、と言うほどではないけれど、この時期の横浜に比べればずいぶんと暑いように感じてしまう。体が温度に対応できない。
 中等部の修学旅行は沖縄だった。高校生をこんなところにつれて来ようものならばいかに紅葉坂とは言え、外聞をはばかる騒ぎの一つや二つは起こりかねない。なんと言っても血気盛んな年頃なのだから。
 その点、中学生はまだおっとりとしたものだ。それなりに血が騒ぎはするけれど、いまだ同性の友達と遊んでいるほうがずっと楽しい、と思う年齢でもある。
 感受性も高校生よりは鋭い。高校生くらいになると、照れが混じるのか真面目に人の話を聞かなくなる。中学生は純なものだった。
 きゅっと夏樹は浮かんできた涙を拭う。教師の思惑など知ったことではなかったけれど、こういうところは好きではない。
 そもそも横浜は大空襲を経験している土地だ。戦争教育も小学生の頃からされている。そのうえでひめゆりの塔まで来る意味がわからない、と思う。思う分、つらくて哀しいのだ、とは認めたくない。その程度には男の子だった。
 むっつりとして周りを見渡せば一人二人など誰はばかることもなく泣いている。それが普通かな、そう夏樹は思いそうできない自分を思う
 冷めているわけではない、と思う。照れているだけでもないと思う。ならばなんだと問われてもよくはわからない。いつか大人になったら自分の考えていることが全部わかるようになるのかもしれない。そう思うだけだった。
「バスの時間だよー」
 学級委員が声を張り上げて集合を知らせている。赤い目をしたクラスメイトたちが照れくさそうに顔を見合わせていた。やはり、その中に夏樹は入っていかれなかった。
「水野!」
 次の場所へとバスが学生たちを連れて行く。すでに三日めともなればいささか疲れも出ているのか、初日ほどうるさくはない。
「うん?」
「次、自由時間だけど。どーするよ」
「どうするって。みんなはどうするの」
 少人数の班で動くことになっていた。取り立てて仲のいい友達もいない夏樹は誰といても同じだったので、自由時間のことまで気に留めていなかった。
「とりあえず、泳ぎに行きたいってのが半分。残りは土産買いに行きたいって。お前の意見で決まるってとこかな」
「そう言うの、最後に持ってくるなよ」
「ま、そう言わず」
 班長ともなればこういう要領のよさと押しの強さが求められるのか、彼は夏樹の苦情など聞く耳持たず笑う。ほっと小さく溜息をついた。
「半分に割れてんの、うちの班だけなの」
「あん? あー、そうか……」
「どっか別のとこもそうなら、適当にくっついて班の形だけ作っちゃえば」
「それいいな。そうしよう。なぁ!」
 振り向いた彼は夏樹のことなど忘れた顔をして友達のほうへと向き直る。安心したけれど、一人ぽつんと残されてしまった気分だった。
「で、お前はどっちよ?」
 ぎょっとした。もう話は済んだとばかり思っていたのに。おかげで答えが遅れて班長が笑う。嫌な笑い方ではなかった。不意に向こうは友達だと思ってくれているのかもしれない、と思った。
「買物、かな……」
「泳ぐのは、ちょっと?」
 にやりとする。つられて夏樹もわずかに笑う。
「初日に水、冷たかったら。懲りた」
「言えてるわ。んじゃ、俺と一緒な。水野も買物コースってことで」
 どうやら喜ばれてしまったらしい。海水浴は望まなかったけれど、特段買物がしたいわけでも。思ってふと気づく。
「あ、土産」
 呟いた声が聞こえたのだろうか。班長がこちらを振り返って、忘れるなよ、と笑った。
 海水浴を根性で決行する、と言う面子と別れ、夏樹たちは土産物屋が立ち並ぶあたりに今はいる。このままずらずらと並んで歩くのかと思えば気が滅入る。
「水野。一時間後に集合な」
 話を聞いていたか、と顔を覗き込まれて思わず夏樹は体を引いた。
「わかった」
 そんな態度を気にした風もなく班長は笑い、それから三々五々仲間たちが散っていく。彼らもべったり一緒にいたいわけではないらしい。
 やっと息がつけるようになった心地で夏樹は深く呼吸をする。横浜とは空気の匂いも違う気がした。目的もなく、と言うわけでもないのだが目当ての店があるわけでもない夏樹はぶらぶらと歩き出す。
 ちらり、と店先から中を覗き込んだり時には中まで入って見たりする。が、あまり欲しいと思うようなものはなかった。
「なんだ、会っちゃったなー」
 振り返れば班長が照れ笑いをしていた。夏樹はかすかに眉を顰める。
「そんな嫌そうな顔しなくってもいいだろ」
 言って唇を尖らせたけれど、そもそも夏樹は会話が好きではないのだ。
「なんか買った?」
「まだ」
「ちょっと一緒に回る?」
「べつに。いいけど」
 そっけない夏樹の口ぶりに気づいたのかどうか、彼は平然と同行してしまった。鬱陶しいほどの熱気が、今は多少煩わしいと言う程度で済んでいた。横浜に帰れば、物凄く鬱陶しい、に変わるだろう。
 やはり、修学旅行は夏樹をも変えずにはいなかった。夏樹でさえ、少しははしゃいだ気分になっていた。
「土産、誰に買ってくんだよ?」
 唐突に聞かれた。首をかしげて夏樹は彼を見上げる。見上げた角度が慣れたもので、夏樹は唇を引き締める。班長は彼と同じくらいの身長だった。
「親と、弟と従兄。あと……親戚」
「従兄って、あれ? 高等部の藤井さん?」
「そう」
「へー」
 そっけない夏樹の答えをどう思ったのか、彼は羨ましそうにこちらを見ている。
「露貴からも、修学旅行の土産、もらったし」
 会話を続けるのが面倒でならない。かといって隣を歩かれて互いに続かない会話をして快い時間を過ごせるほど親しくない。つくづく、面倒だった。
「そっか。あっちは秋だもんな」
「そう」
 高等部の修学旅行は大学受験を考慮して二年生の秋に行われる。中等部とは半年のずれがあるわけだった。夏樹はその際、露貴からも土産をもらっている。いったいどうやったらこんなものを見つけられるのか不思議で仕方ない実に珍妙なキーホルダーを。
「仕返し……」
 絶対にする、と決めていた。ありえないような何かを見つけて突き出してやる、と決めていた。
「なんか言った?」
 呟き声が聞こえのたか班長に覗き込まれた。つ、と顎を引く夏樹に彼は苦笑する。
「なにも言ってない」
「べつにいいけど。つか、そんな嫌がんなよ」
「男にくっつかれて心踊るほど歪んでない」
 夏樹としては叩きつけるよう、言ったつもりだったけれど彼はこたえた様子はなかった。げらげらと笑っている。呆れて夏樹も少し笑った。
「まぁ、それが普通だよな」
 言って彼はちらりと夏樹を見た。じろり、睨み返す。それにも笑う。こんなよく笑うやつだったんだ、と夏樹ははじめて彼を見る思いだった。
「言っとくけど、俺も普通だから」
 眉を上げてことさらに言うあたり、信用できたものではない、と夏樹は思う。
「別に、俺はどうでもいいけど」
 面白い話題でもないのでさっさと流すことに決めた夏樹はそう言って肩をすくめた。また一軒の店に入った。ぐるりと一周して、出る。
「水野、なんかいいもんあった?」
「ない。……そっちは」
「ないよなー。――今すごいことに気づいたんだけど」
「なに」
「お前さ、俺の名前、覚えてる?」
 言葉に詰まった。実のところ、班長としてしか認識していない。今まで共にすごしてきたクラスメイトだと言うことは重々承知していたが、関わりのない人間の名前をわざわざ覚えようとするほど夏樹はまめではなかった。
「……やっぱ覚えてないわけねー」
「ごめん」
「いや、そういうやつだと思ってたし。花田ね、花田。覚えてよ。はい、はーなーだ」
「うるさいよ! ――花田」
「おっけー。上手、上手。よくできました」
 にんまり言うあたり、どうも浮かれ気分に乗せられてしまった気がする。とりあえず、修学旅行の間だけなら、悪くはないか、と思い直した。きっと帰ったその日に花田の名前も忘れるだろう。
「行くよ」
 まだ浮かれている彼を放り出すよう、夏樹は土産物屋に入っていく。すぐ笑いながらついてくるのはわかっていた。
「へぇ、シーサーじゃん」
 花田が小さなシーサーを取り上げていた。掌に乗るほどのそれは思いのほかに可愛らしい。大きさだけならば。
 顔つきは、可愛いとはとても言えない。観光客用の、と言うより修学旅行生用の土産物なのだろう、作りは荒いし色も粗雑だ。よくよく見れば、可愛らしくはない顔を通り越して、憎々しくすらある。不意に夏樹は欲しくなる。
「見せて」
 彼の手から取り上げて、ちらりと値札を見やる。修学旅行生の小遣いで充分買える範囲だった。にんまりと笑った。
「なに、水野。買うわけ?」
「うん」
「それ、ちょっと嫌がらせ」
「嫌がらせだから」
「……藤井さんに?」
「――別の、親戚に」
 ためらいがちに尋ねてきた花田より、ずっとためらった夏樹の答え。隠しているわけではなかったけれど、大きな声で言ってもいないコンラートとの関係。確かに遠い親戚に違いはなかった。
「ふうん」
 が、花田は露貴にではない、と言った途端に興味を失ったよう、シーサーから目を外した。夏樹はシーサーを握り締めたまま店内を回る。
「あ……」
 いつの間にか花田とは店内ではぐれたらしい。どうでもいい夏樹は気づかなかった。それより目を奪われたもの。
「沖縄、ガラス……?」
 細かい気泡がたっぷりと入った厚手のガラス器だった。日常使うのに、壊す心配をしないでよいほど、厚い。それより何より、気に入ったのは。
「これにしよう」
 夏樹の口許がほころんだ。ガラスのコップは、澄んだ沖縄の海の色をしていた。氷をいっぱいに入れてレモン水を満たせばさぞ涼しげだろう。
 後日、夏樹はコンラートに沖縄土産のシーサーを渡した。落胆を顔に出さないよう、わずかに強張った顔をした彼を充分に楽しみ、それから露貴に土産を託す。
 きっと露貴は彼が気づかないうちに寮の机にでも置いておいてくれるだろう。夏樹がコンラートの喜ぶ顔をその場で見ることはなかったけれど、それで充分だった。




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