大学から帰ってきた翡翠が、どことなく含羞んでいた。春真は読んでいた本から顔を上げて首をかしげる。何かしら嫌な予感、というものかもしれない。
「どうした、何かあったか」
 それでもつい、尋ねてしまうのは間違いなく惚れた欲目だと春真は知っている。質が悪いのは翡翠もそれを知っていることだった。
「……うん、別に。ちょっと、ね」
「それで誤魔化せると思ってるあたりが子供だな」
「そういうこと言う?」
 ふん、と鼻で笑って翡翠は荷物を座敷に置いた。それに春真は再び首をかしげる。朝出て行った時より荷物が増えていた。
「ハル、知ってる? 今日なんの日か」
 言われて春真は顔を顰めた。思わずそっぽを向いて庭でも眺めてみる。背後で翡翠がくすくすと笑った。
「やっぱり、知ってるんだ」
 わざわざ前までまわってきて翡翠は春真の顔を覗く。まじまじと覗けば、わずかに赤らんだ頬とほんのりとした深い蒼を宿した目。
「バレンタインのチョコ、もらっちゃった」
 大学で翡翠はずいぶんともてるらしい、春真はちらりと荷物を見やって思う。紙袋の中にはいくつもの色とりどりの箱。
「やらないからな」
 本当は、買いたい気持ちがないわけでもない。それでも女性の中に混じってチョコレートを買うには多大な勇気がいる。さすがに春真も怯んだ。
「期待してないもん」
 軽く言うぶん、欲しかったのではないか、と春真は気がかりになる。こんな顔をさせてしまうのならば、多少の羞恥などどこかに置き捨ててくるのだった、と後悔するももう遅い。
「だって、恥ずかしいでしょう、先生?」
 ふ、と翡翠が微笑む。高校生のときから、そればかりは変わらない澄んだ笑みに春真は胸を突かれ、気づけば腕を伸ばしていた。
「ほら、照れてる」
 腕の中、翡翠がくすりと笑った。その声に、なぜだろう。思い出したのは。春真の気配が変わったのを敏感に察知した翡翠が顔を上げた時、そこには小さく笑った春真がいた。
「どうしたの」
「いや……思い出した」
「何を?」
「真人さんのこと。あの人、チョコレート買ったことあったな、と思って」
 目の前で、翡翠がきらきらとした目で語っていた。話して、と。



 後から聞いた話だった。当時の春真はすでに実家に戻っていたから、中学生のはずだった。二年生か三年生、確かそうだったと思う、春真はそう言って翡翠に話し始めた。
「原因は、たぶん俺なんだ」
 原因の語感に首をひねる翡翠に春真は微笑む。当時、バレンタインデーにチョコレートを贈る、という習慣がそれほど盛んだったわけではない。むしろほとんど知られていなかった、といっても過言ではない。
「今にして思えば、子供の遊びというか、中学生とか高校生とかがプレゼントを買う口実みたいなものだったのかな」
 確かにそれ以前からデパートや菓子屋ではバレンタインデーの広告を打ったりもしていたらしいが、少なくとも春真が子供のころ、そのような習慣があった記憶はない。
「ちょうど……だから、中学のときだ。学校で話題になって――」
 紅葉坂学園は創立から今に至るまで一貫して男子校。当然にして女子生徒はいない。だからかもしれない。年頃の少年としては女性の話題というものは何につけても気になるもの。
「女の子がチョコレートくれる日だって言うぞ」
 そんな話題を持ってきたのが誰だったのか、もう春真は覚えてはいなかった。そしてどうやらそれは誤解で、あのころは女性が贈る日、ではなくて単に愛の日、と言った方が正しいような売り方だったらしい。
 だが春真は誤解したまま話に行った。無論、日の出町の伯父の家に。そして話し相手は伯父ではなく。
「真人さん」
 相変わらず、伯父が座敷で機嫌の悪そうな顔をしていた。春真はそれが不機嫌ではなく常態だ、と知っているから気にも留めない。
「あぁ、よく来たね」
 にこりと微笑むのは、台所から手を拭きながら現れた真人。夕食の下ごしらえでもしていたのだろう。煮物のいい匂いがしていた。
「せっかくだけど、ちょっと買い忘れがあって僕は出かけるけど……どうする。伯父様と留守番してるかな」
「御冗談。お付き合いします。荷物持ち、するよ」
 助かるよ、真人は笑って夏樹の肩にそっと手を置く。出かけてくる、と伝わったのだろう、伯父が黙ってうなずいた。
「ほんと、伯父貴って横柄だよな」
 家を出た途端に言うものだから、真人は吹き出す。一応は悪口を伯父に聞こえないところで言おう、という心積もりはあるらしい。
「またそういうこと言って。陰口を叩くものじゃないよ」
「違うよ、陰口じゃない、本人の目の前でも言うもん」
「……確かに、陰じゃないね」
 呆れた真人を見上げれば、口許が笑っていた。それでも笑いをこらえているのだろう、少しばかりひきつった唇に春真は笑い出す。
「それで、ハル。なんの用だったの」
 用事がないのならばそれでもいいんだ。真人は慌てることなく言い足して春真を見つめる。だからそれが本心だと春真はほっとする。生まれた家に戻っても、心の奥底では伯父の家こそが自分の家だ、と春真は思っている。実の両親は壮健だけれど、自分にとっての「両親」は真人と伯父だとも。
「学校でさ、面白い話聞いて」
 そうしてチョコレートの話を聞かせた時、真人は単にふんふんと聞いてくれていただけだった。子供のする話が面白かったのだろうし、あるいは誰か好きな女の子でもできたのか、と思いもしたのだろうと春真は思う。
 それきりバレンタインデーのことなど春真はすっかり忘れていた。春真にとってはただの面白い話、でしかなかったのだから当たり前かもしれない。三月上旬になって、なんの気なしに伯父の家に遊びに行ったとき、春真はだから仰天することになった。
「なんだ、来たのか。真人ならいないぞ、出版社に行ってる。だから――」
「はいはい、お茶淹れますよ、伯父さん」
「返事は――」
「一回だよね、知ってる」
「だったら――」
「はい、ごめんなさい。伯父さん」
 ことごとく言葉を先取りし、春真はからかうように夏樹を見ていた。本当ならば怒るべきだ、と夏樹は思うけれど、ただにやりとするだけ。
 春真が実家の空気に耐えかねてここに帰ってくるのを、夏樹は知っている。反抗してみせるのも、からかって悪戯をしてみせるのも、だから春真の甘えだった。そうして夏樹や真人との絆を確かめているのだろう。本人はまだ幼すぎてその事実を理解しているとは思えなかったけれど。
「で。なんの用だ」
「別に。遊びに来ただけ」
 夏樹好みのぬるい茶を淹れて春真は座敷に座り込む。真人がいれば菓子の一つでも出してくれるのだけれど、相手が伯父ではそれも期待できない。
「……チョコレートがあるぞ」
「へぇ、めずらし。どれどれ、見せてよ」
「見せてはやるが、食わせてはやらん」
「ちょっと、それどういうことだよ」
 言って春真は悟った。それは真人が伯父に買ってきたものだと。特別に、伯父にだけ買ってきたものだ、そうぴんとくる。
「そのとおり。だからやらん」
「だったら言うなよ」
「一応、報告しておくべきかと思ってな」
 報告と言われた春真は首をひねる。わざわざ知らせてもらう意味がわからなかった。
「なんだ、わからないのか。真人に話したのはお前だろうに」
「……ちょっと待って」
「なんだよ」
「もしかして真人さん、バレンタインデーにチョコ買ってきたのっ」
「そのとおり。いい度胸をしていると言うべきか」
 珍しく朗らかに伯父が笑っていた。つまり伯父はバレンタインデーにチョコレートを贈ろうという広告を知っていたわけだ、と春真は知る。
「僕は女の子がって聞いたけど」
「俺が知ってるのは愛する人にチョコレートを添えた手紙を贈ろうって話だな」
「どっちにしても……」
「いい度胸だよ、まったく」
 くつくつと伯父が笑っていた。心底幸福で、誰恥じることなく愛する人を誇る顔。春真は少しだけ悔しくなる。こんな時、絶対に伯父には敵わないのだと思い知らされてしまって。
「悔しいか、春真」
「別に真人さんがどうのってわけじゃないから、念のため」
「わざわざ言わなくてもかまわん。だいたいお前が本気で真人に惚れてようがあいつのほうがおまえなんざ相手にせんよ」
 春真は思わず庭を見やった。正確には庭ではなく、外の天気を。心の底から槍でも降ってくるかと疑った。
「なんだ、その顔は」
「いや、だって。伯父貴が堂々と惚気てるし。槍が降らないほうが嘘じゃん」
 言われてはじめて自分の言葉を理解したのだろう。夏樹がそっぽを向いてしまう。春真もつい、目をそらした。伯父が赤くなっているところを見ても少しも嬉しくない。いたたまれなくなるだけだった。
「それで、真人さん。どうやって買ったわけ」
「……普通に買ったらしいぞ」
「嘘だね」
「そう思うか」
「うん」
「実は俺もそう思って問い詰めてみた」
 互いにあらぬ方を見やりつつ言葉を交わす。真人が見ればそれこそ大笑いすることだろう。真人がいるときには二人はこれほど言葉を交わしはしない。二人して真人にばかり話しかけている。それなのにこうして二人きりになればなったで意外と話が弾むのだった。
「問い詰めたって――」
 どうせ真人ははじめから話すつもりでいたのだろう、と暗に伯父を非難すれば、あちらもそれは感じていたらしい。照れた様子で頬をかいていた。
「お前に聞いて、せっかくだからチョコレートを買ってこようと思うところがまず、理解できないところなんだがな……」
 恥ずかしいだろうに。夏樹はそう思う。名目が愛の日、であったとしてもそのような広告に男が乗るものではないだろう。いい機会に、と勇気を振り絞るのはむしろ女性のような気がする。
 そこに自分が混じっていくのを思うだけで夏樹などはぞっとするのだ。そもそも人嫌いの人混み嫌い。デパートの売り出しに行くことを考えただけで背筋が寒くなる。
 そこに真人はわざわざ行ったという。そして堂々とチョコレートを買ってきた、というのだから呆れてしまう。
「だって愛の日だって言うからね。別にいいんじゃないのかな」
 帰宅してチョコレートを手渡しつつ、春真の話などを交えて語って真人は笑っていた。
「お前ね」
「だって、愛の日なんでしょう。だったら僕が買って何が悪いのさ。奥様に贈り物ですか、なんて聞かれたけどね」
「おい」
「なんて答えたか、聞きたそうだね、夏樹」
 にんまりとする真人に夏樹はそっぽを向く。それに真人が無言で笑みを浮かべているのを夏樹は感じていた。
「さすがに同居している男性に、とは言いにくいよ、僕だって」
「……俺は」
「あのね、夏樹。妻にですとは言ってないからね」
 思わず振り返ってしまった。だったら彼は何を口実に買ってきたというのだろう。恥ずかしくなかったわけがない。今更夏樹は気づく。それでも買ってきてくれた彼の心を思う。
「お前……」
「甘いものが好きなので息子にってね、言ったよ。そしたら、可愛いお子さんなんでしょうねって」
「……ものすごい言い訳だな」
「だと思うよ。でも、いいんじゃないかな。あながち嘘でもないし」
 からりと笑って真人は自分が買ってきたチョコレートをつまむ。一粒のチョコレート。唇に挟んでは白い歯がかりりと噛む。
「半分つ、ね」
 夏樹の唇に含ませて、真人は微笑む。ほんのりと目許が赤らんでいるのは、自分の仕種に照れたせいか。
「そこまでするなら、いっそ」
 新たな一つをつまみ上げ、夏樹はそれを咥えたまま真人を抱き寄せる。何をするか悟った真人がそっと目を閉じ唇を薄く開いた。
「――と、まぁ。そんな言い訳をしたらしいぞ」
 さすがに詳細は省いて春真に語れば、省かれた何事かがあったのだと、ませた子供は感じたらしい。いやな顔をして茶をすする。
「だしにされて腹立てたか」
「……別に」
「機嫌が直るものがあるが……どうする」
 なんだよ、と伯父を見やれば、にんまりとしていた。春真は何かを言いかけて、そして止まる。伯父の手にあったもの。
「だから真人が言ってたって、言っただろうが。あながち嘘でもないって、な」
「それ、もしかして」
「そのとおり。腹が立つから俺としては勝手に食いたいところだがな」
「食うなよ、僕のだからなっ」
 伯父の手から綺麗な箱を奪い取り、胸に抱える。そして溶けてしまうかもしれないと慌てて鞄にしまい込む。
「とりゃせんよ」
「嘘だ。取るに決まってる」
「今日来なかったら食おうと思ってたがな」
 からからと笑う伯父、という珍しいものを目にしても春真は驚いている暇がなかった。真人が買ってくれたチョコレートに驚きっぱなしだったせい。
 チョコレートが嬉しかったのではない。ただの雑談だったのに、ちゃんと話を聞いていてくれた。愛の日、といって言い訳だとしてもチョコレートを買ってくれた。
 そして何より、息子と呼んでくれた。



「だから、俺が初めてもらったバレンタインのチョコってのは真人さんのだったわけだ」
 翡翠が淹れてくれた茶の味に、春真は昔を懐かしむような目をした。茶の味に、真人を思い出したのかもしれない。
「なんか、ちょっと妬けるかも」
「うん?」
「ハルの――」
 初恋だったのかな、とはさすがに言いかねた。むしろ言ってしまうことで藪蛇になるのを恐れた翡翠は小さく微笑む。
「すごく優しい顔するから。初めてのチョコ、僕があげられたんだったらよかったのにって、思って」
 何度となくもらっているだろう。男子校とはいえ、女性と知り合う機会がなかったわけではないだろうし、大学ではずいぶんともてたことだろうと翡翠は思う。社会人になってからはさらに当然。贔屓目ではなく、端正な美しい男だと翡翠は心からそう思っている。だからきっと、バレンタインのチョコなど、飽きるほどもらっていることだろうと。
「義理チョコだの冗談だのってのはいくらでももらったがな」
 ぼそりと言う春真に、翡翠は嘘だと感じる。春真の嘘、ではなくて贈ったほうの嘘を。言い訳をして、冗談に紛らわせて贈ったのだろう。気づかぬは本人ばかりか、と思えば相手に少しだけ同情したくなる。
「真人さんのチョコには敵わないと思うけど。これ、あげる」
 つい、と翡翠が箱を押し出した。畳を滑らせる音に春真がそちらを見やれば、どことなく見覚えがある綺麗な箱。バレンタインの包装というものは大して変わるものではないらしい。
「いらんよ」
 つい苦笑してしまう。大学でもらってきたものの一つだろう。翡翠を思う女がいる、と思うだけでも業腹なのに、その女から贈られたものを口にするなど冗談ではない。――とはさすがに言わなかった。こればかりはどうあっても言えはしない。
「そんなこと言わないで、もらってくれると嬉しいのに」
「食べきれないんだったら、冷蔵庫にでも入れとけよ。あぁ、新田にでもわけてやったらどうだ。羨ましがるぞ」
「そんなわけないじゃん。新田は四條からもらうんじゃなかったら嬉しくないと思うけどな」
「まぁ……それは、そうか」
「だから、ハル。もらってよ」
 いささかしつこい。笑顔が引きつりそうで春真は瞬きをする。まるでその瞬間を狙っていたかのようだった。
「恥ずかしいのに、買ってきたんだけどな」
 茶を吹いた。なんだそれは、と思った。翡翠が何を言ったのか、咄嗟のことで理解できない。むしろしたくない。
「ハル、何やってるの」
 昔、真人にたしなめられた時の口調そのままで、春真はまたも絶句する。笑いながらこぼれた茶を吹きとって、翡翠は再び箱を押し出した。
「もらって、くれないの。先生」
 茶化した言葉に照れた声。春真は無言で箱を引き寄せる。ぱっと明るくなる翡翠の顔から目をそらしたくなってしまう。あまりにも、恥ずかしかった。
 だから黙って包装を剥いだ。無言のまま、箱を開けた。その昔、初めてもらったのとよく似た小粒のチョコレート。一粒口に放り込み、春真は翡翠を抱き寄せる。
 ふと気づく。あの時伯父はもしかしたら今の自分と同じことをしたのではないか、と。くちづけた唇が笑いに歪んだのを、翡翠がそっとたしなめた。




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