睡眠薬でも解消できないしぶとい不眠に取り付かれていた。原因など、わかっている。春真はそう内心で嘯いた。
 夏休み明け、高遠と過ごしていた時間を持つことができなくなったせいだ。じりじりと照りつける太陽の中、高遠翡翠はきちんとまめに春真の自宅に通っては大学受験の補習を受けた。
 ただ、それだけだ。翡翠から思いを打ち明けられはした。けれど何も変わらない。変えるつもりもない。
 それだけはしてはいけない、教師である春真の自戒だった。
「そうは言ってもな」
 呟きは自嘲めいて図書室の中に響く。慌てて口許を押さえはしたが、図書室の二階である。職員室棟に隣接の図書室は、自習や度重なる司書の叱責にもこたえない生徒たちの雑談の声でいつも細波のような音に満ちている。
 だがそれも一階部分だけのことであった。地下は自習室の小部屋が並んでいるだけに人の声など聞こえない。二階はといえば、こちらは専門書の類ばかりで人気自体がそもそもなかった。
「そろそろハルんとこいくかな」
 兄の春樹は医者だった。彼に言えばまた睡眠薬を処方してくれるだろう。けれどべったりと甘やかされるのだけは閉口だと春真は思う。離れて育っただけに、彼は双子の弟を殊の外可愛がっているらしい。
「三十男が三十男を可愛がるなっての」
 誰もいないのをいいことに独り言で兄を罵る。が、その口調はどこかやはり「弟」のもの。無意識のうちに兄たる彼に甘えているのは春真かもしれなかった。
 溜息をひとつつき、春真は手にした本を繰る。授業の準備をしているつもりだった。が、上の空でもある。
 そもそも彼がいま手にした本など、自宅にあるものなのだ。何もわざわざ学校の図書室で見るようなものでもない。その上、なぜ二階でそれを手にしているのか。本来は階下の本だった。
「どこだったかな……」
 さすがに内容は大方は覚えているとはいっても知悉しているわけでもない。ぱらぱらとページをめくっていた手が止まった。
 ふっと目許が緩み、そして暗くなる。苦痛をこらえるような顔だった。
「先生……?」
 突然、光の中に現れた姿に一瞬我を忘れそうになった。翡翠が立っていた。
「どうした?」
 教師以外の何者にも見えない顔であることを願い、春真は微笑む。
「気分転換に本でも眺めようと思って。そしたら先生が」
「ずいぶんな気分転換だな」
「だって、わからない本っていいですよ」
「どこがだ?」
「理解を求めない所が」
 受験勉強真っ盛りの翡翠は頭痛でもこらえるような顔をして、それでもかすかに笑う。
「それは確かに」
 まるで理解の及ばない専門書の背表紙をただ眺めるというのは、ある意味では気分転換になるのだろう。理解しろ、覚えろと喚きたてているような参考書を相手にしているいまの彼にとっては。
「そしたら先生が……」
 そう翡翠は言いよどみわずかに首を傾けて言葉を止めた。
「言ってごらん」
 彼が、何か自分を困らせることを言うはずがない、そう確信している春真の大人のいやらしさだった。言っていいと、本心では思っている。もう少し甘えてくれていいと思っている。
 それと同じくらい困らせないで欲しいと願っている、いまここでは。教師であるということに固執しているのは自分。一人の男であれたならば、思いながらも教師であることをやめられない。
 内心を見透かされるのを恐れるよう、春真はいたずらに眼鏡を押し上げていた。落ちてなどいないそれを。
「なんか、つらそうで、声かけちゃってから気づいて」
 ごめんなさい、言って勢いよく翡翠が頭を下げたのを呆気に取られて見ていた。
「よく、見えたな……」
 言った途端、愚かなことだと思った。自分だとて翡翠のことは目の端であろうともいつも見ている。彼がそうでないはずがなかった。
 案の定、少し睨んだ彼は何も言わず笑みをのぼせた。妙に艶な仕種に心がざわめく。
「なにを読んでたんですか」
 ほんのわずかの間に感情を切り替えたらしい、子供とは言えないその素振りに春真は胸が痛くなる。彼をそうさせてしまったのは自分だと思えばなおのこと。
「百人一首を、な」
「ここのですか?」
 言って辺りを見回すのに春真は黙って首を振る。それに苦笑を返してきたのはなぜだろう。春真もそっと微笑むよりなかった。
「琥珀の百人一首の解説と言うか……エッセイみたいなもんだな」
「あ、授業でやるって言ってましたよね」
「その準備みたいなもんだ」
 今更、百人一首などやっている暇はないはずだ。だからこれは授業中の雑談用の仕込み、と言うところ。そんな他愛ない話でも聴いていてくれたのかと思えば男とは別の部分で教師としても純粋に嬉しい。
「このまえ読みました」
「どうだった?」
「面白かったです。古文苦手でしたけど、ああいうのなら読み易くって」
「そうだな。どこが一番?」
 話しを引き伸ばしていると春真は思う。もう少しだけでもここで、静かな所で二人きりでいたかった。
「和歌の解説本って品詞がどうのとか、連体形がどうのとか、そんなのばかりじゃないですか。琥珀のは違ったから、そこが一番」
 いかにも勉強に疲れた受験生らしい答えに春真は笑う。
「先生はどこが?」
「毎回、ちょっとした篠原の話しが添えられているだろう? それがけっこう好きだな」
「あれも面白かったです! 変な人たちだなぁ、と思って」
 無邪気に笑うのについ引き込まれそうになった。篠原と琥珀が自分の両親にも等しいとは、翡翠はまだ知らない。
「変だな、確かに」
 在りし日の彼らを思う。いつかあの人たちのよう過ごすことができたならば。翡翠と出会って以来そう願わない日はなかった。
「本当に楽しいです、あの話。でも先生?」
「うん?」
「なにを、読んでたんですか」
 再びの問い。春真は一瞬口ごもる。翡翠は何と言う本を詠んでいたのかと問うていたのではなかった。どこを読んでいたのか、なぜあのような顔をしたのか、と。
「入道前太政大臣、藤原公経の歌。わかるか」
「花さそふ――でしたっけ」
「よく……覚えてたな」
「頑張りましたから」
 さらりと言った。これが国文にはとても成績が足らないと言われていた彼がした努力の証し。春真に認められようと、必死になった時間の。
「でもその歌のどこが?」
 言って翡翠はまだ春真が持ったままの本を覗き込む。柔らかい髪がはらりと額に落ちて、春真は胸が弾むのを抑え切れなかった。
「さて、な」
「先生!」
「まだ内緒だ」
 言って密やかに春真は笑って見せる。いつか話す日が来るだろう。公経の歌に琥珀が書き添えたのは自分のことだ、と。今も瞼に浮かぶあの人の笑顔。彼と篠原を親と慕った子供時代を話すことができるだろう、翡翠には。
「ずるいです!」
 甘い抗議に春真は笑い、ポケットの中に手を突っ込んでは何かを取り出す。
「よく覚えてたからな、ご褒美だ」
 きょとんとして差し出された翡翠の手の中、小さな物を落とした。
「いやです」
 ふい、と顔をそむけた彼の耳許が仄かに赤い。春真はふっと唇を緩めて再び彼の手の中からそれを取り上げる。
「高遠」
 小さな袋を破いて出てきたのは、小粒の飴。桃色のそれをそれの唇に押し込んだ。照れたよう、目を伏せる彼に胸が痛む。
 学校だから、教師だから、生徒だから。呼んで欲しいだろう彼の名を呼ばなかった。ただ一言、翡翠とは呼ばなかった。



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