高遠が、夏休みに自宅に来るようになってすでに何回かを数えていた。せっかく国文を目指して受験したい、と言っているのだから春真としてもこれ以上嬉しいことはないはずなのに、日増しにつらくなっていく。
「高遠」
 思わず誰もいない庭に向かって呼んでしまって春真は赤面した。こんなにも一人を思うことがあるとは思ってもいなかった。
 教師としては、嬉しい。一生懸命に勉学に励む生徒を見ていて嬉しくないはずなどない。けれど。
 夏になってから何度ついたかわからない溜息を漏らし、春真は庭に降りていく。振り返れば軒先にすだれが吊るしてあった。
 彼の唇からふっと笑みが漏れた。バケツに水を汲み、すだれに乱暴にかけていく。子供の頃を思い出しては懐かしくなる。
「あんなもん、ないもんな……」
 夏の苦手な伯父のため、真人は桶に水を汲んでは柄杓でよしずを濡らしていた。
「こうするとちょっとは涼しいからね」
 不思議そうに何をしているのか尋ねた春真に向かって彼はそう微笑んだものだった。
 いま自分が同じことをしたい、と思っていた。昔風の佇まいを好む高遠のために。偶々なのかよしずが手に入らなくてすだれを買ってきてはかけてみた。それが目に懐かしい。
 縁側から家の中に上がれば、やはり多少は涼しいような気がする。緑が多いせいだろう、通り抜けていく風はずいぶんと涼しかった。
 高遠のために、真人が伯父にしていたのと同じことをする。それが春真の気持ちを弾ませていた。後になって落ち込むのだとわかってはいても。
 決定的に違うこと。彼らは慈しみあった仲だった。自分たちは違う。高遠の思いは知っている。自分の気持ちも彼は知っている。
 けれどそれ以上どうすることもできない、しないと決めたのは春真だった。自分が教師であること。それが思いの外に枷となっていた。大人の意地、とでもいうのだろうか。
「馬鹿みたいだな」
 苦い声で春真は呟く。うまくやってしまえばいい。知られなければどうと言うこともない。誰かが耳許で囁く声に、決して春真は耳を貸さなかった。
 今も聞こえるその声に、決然と春真は顔をそむけゆっくりと家の中へと戻っていく。そろそろ高遠がくるだろう。その前に蚊取り線香でも焚いておいてやりたい。きっと喜ぶから。
 そしてやはり、訪れたなりすだれに蚊取り豚を目にした高遠は、殊の外喜んだ。直前になって慌てて吊るした風鈴も、彼をずいぶんと喜ばせたようで思い出してよかったと安堵する春真だった。
「こういうの、好きです」
 子供らしい顔をして言う高遠に春真はうなずいてみせる。だから用意したのだ、とは口にせずに。
 しかしそれさえも見透かされているような気がする。そうやって、自分を待っていてくれる。それが嬉しくて苦くて、つらい。
「先生」
「うん?」
「風鈴、ガラスのと鉄のと、どっちが好きですか?」
「そうだな……ガラスのほうが好きかな」
 言えばまるで自分が好きだと言われたよう高遠は微笑んだ。
「僕も、ガラスのほうが好きです」
 だから春真にもその言葉は途中が聞こえない。互いに言いたいこととは違うことを言っている。途端に高遠はどこかが痛みでもしたようすっと顔を伏せた。
「続き、やるぞ」
 そのような言葉しかかけることのできない自分が忌まわしくてならなかった。
「はい」
 それさえも許容するよう、高遠が顔を上げて微笑む。今度どこかが痛んだのは春真のほうだった。
 駆け足の補習。丹念に学ばせるにはいかにも時間が足らなかった。受験勉強にはそれで充分、とは言え教師としては忸怩たる物がないとは言わない。
 それでも必死に勉強している高遠を見るのは喜びだった。言わなくとも予習はしてくる、復習もまったく問題ない。質問も的確だ。
 それだけ彼の必死さが伝わってくる。少しでも自分の側に近づきたい、と。遠ざけているのは自分なのに、春真は口先で授業をしつつそんなことを思っていた。
「先生」
 ちょうどきりのいいところだった。何か質問でも、と落ちてもいない眼鏡を押し上げて視線で問うた春真に高頭が困った顔をする。
「どうした?」
「その。夏ばてですか?」
「あ……いや……」
 上の空になった口調を見抜かれたらしい。気づいて春真は苦笑する。ほんのわずかなもの。たとえ新田だとしても気づかなかった程度のかすかなそれに高遠が気づいた。
「暑いですもんね」
 そしてそんなことを言って彼は自分ではぐらかした。気づいたけれど、気づかなかったふり。まだ子供だと思いたい高遠が見せる仕種に春真はそらしたくなる目を耐えた。
「そうだな」
「……食欲とかは」
「大丈夫。あるよ」
 心配そうに覗き込んでくる高遠の目をしっかりと見て春真は言う。すぐ側にある体温。熱気。それを強いて思考から追い出したくてかなわない。
「ちょっと休憩にしようか」
 そんなことを言って立ち上がればかすかに高遠が唇を噛んだ気がした。
 見なかったことにして春真は何気ないふりをして庭に視線を移す。風が止まってしまっているのだろう、風鈴も鳴らなかった。
「高遠」
 歩き出してから振り返る。はっとしたよう顔を上げるその頬が、悲しみだろうか緊張だろうか、白かった。
「ところてん、きらいか?」
 尋ねるのは、意地が悪い。そう思う。そのような聞き方をすればきっと。
「好きです」
 まるで自分に言うように、高遠は答えるのだから。今まで白かった頬に血の色を上らせながら。
「よかった」
 そうとしか言えない自分を春真は嫌悪する。食べ物の話題にかこつけて高遠が言ったよう、自分も言えばいいのだ。
「ちょっと待ってな」
 それなのに、たった一言が言えない。自分も好きだ、と言ってしまえばいいのに、言えない。
 そうすれば高遠がほんの少しであっても喜ぶことがわかっているのに。けれどそれをしたら自分の箍が外れてしまうこともまた、よくわかっていた。
 ゆっくりと用意を整え春真が戻ったとき、高遠はぼんやりと庭を眺めていた。足音に気づいたのだろう、驚いたよう振り返る仕種はやはり子供のもの。子供と言うよりはどこか小動物を思わせる。
「あ……綺麗」
 瞬きをして手元を覗きこんだそれも好奇心旺盛な小動物のようだった。
「夏場には涼しげだろう?」
「はい」
 にっこりと笑って高遠が言う。それを見つつ切子の器を手渡せば、驚いた顔。
「冷たいだろ」
「びっくりしました」
「だろうと思った」
「落としちゃうかと思いました」
 言いつつ、二人とも器から手を離しはしなかった。きっと驚くから。冷たくてびっくりしたから。そんな態度を取り繕って同じ器を持っている。指先がかすかに触れ合った。
「暑いからな、器を冷やしといた」
 先に離したのは、春真。ついで名残惜しそうな顔を一瞬だけ見せ高遠の手が器を引き寄せる。青い切子の器にはところてんがいかにも涼しげに盛られていた。
「切子って言うんですよね」
 しげしげと器を見やっている表情は、子供のものだった。興味津々でいくら眺めても飽きない、と言いたげに。そして自分がそう思いたがっていることを春真は知っていた。
「すごく綺麗、これって古いんですか?」
「みたいだな。私が子供のころからあるから」
「そんな! びっくりしました」
「大事に使えばけっこう持つぞ」
 途端に恐る恐る触れだした高遠に春真は笑って見せる。春真にとっては懐かしい「両親」が使っていた器だった。それをいま高遠が持っている。不思議と嬉しかった。
「そうだ、びっくりしたと言えば」
 そうちらり、と高遠が視線を送ってきた。知らず胸が高鳴る。子供だと思っていたいのに、思わぬところで艶な仕種をする。
「うん?」
 けれど春真はそんなことを感じたなど悟らせもせず笑みかけた。
「先生は酢醤油ですよね」
「育ての親がそうだったからね」
「僕もそうなんですけど、母方の遠縁が関西なんです」
「あぁ……」
 そこで言いたいことがわかった。高遠も察したようで困ったような顔をして見せた。
「黒蜜なんですよね、あっち」
「あれは……驚くよな」
「最初、何が起こったのかわかりませんでした」
 それだけはやけにきっぱり言う高遠に春真は笑い声を上げた。その声に怒ったような顔を作った見せては戯れに打ちかかる。
「先生!」
 打たれた場所が、痛みではなく痛い。わざとらしくさすって見せたけれどその実、春真の本心だった。
「悪い」
 まるで高遠のような困り顔だった。それに気づいたのだろう、ふっと高遠が口許を緩める。たったそれだけのやり取りが楽しく痛い。間違いなく、互いに。そう確信できることがまた痛みを増す原因になる。
「この模様、なんて言うんですか?」
 そっと高遠が器に指を滑らせた。ふと疑念に囚われる。知っていて、尋ねているのではないか、と。
「篭目模様と言うらしいな」
「かごの網目、ですか? なんだか、中に閉じ込められているみたい……」
 囁きとも紛う呟き声。上げかけた視線を高遠が伏せた。だから春真は問いが意図的なものではないと知る。けれどあまりにも的確すぎた。
「きらきらして、閉じ込められてるのは光、ですよね」
 無理をして微笑った気がした。春真は黙って笑みを浮かべてはそうだよ、とでも言うよううなずいてみせる。言葉などならなかった。
 閉じ込められているのは、自分。自ら篭って出てこないのも、自分。それを知りつつ待っていてくれる幼い者に手を伸ばしかけ、春真はぼんやりと庭に視線を投げていた。



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