百人一首いろいろ

水野琥珀



 結局、今回から私がこの掌編を担当する事になりました。以前、篠原が
「後任は琥珀」
 と言っていたのがなぜか実現してしまったようです。
 とはいえ、私は歌詠みであってとても篠原のような旅行記を描ける文才はありませんから、せいぜい歌にまつわる話を書いていくことにしましょう。
 よく人に
「なぜ恋の歌ばかりを」
 と尋ねられますが、好きだから、としか答えられないのです。
 いにしえ人のように恋歌を贈りあう相手もいないことなのですけれどね。
 そういったわけですから、「百人一首いろいろ」と言いましても自然、恋の歌が多くなる事でしょう。



 さて能書きはこのくらいにして。
 せっかくですから、その篠原にまつわる歌からはじめることにしましょう。

 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど
 あまりてなどか 人の恋しき

 参議等の歌ですね。
この人は役人としては有能だったようですが、歌人としては業績のあまり残っていない人で、伝わっている歌は四首、だそうです。
 しかし四首のみ伝わっている、というのはなんとも惜しい事に思われます。

 さらさらと篠が風に鳴り。
ふつふつとあふれかえる思いは隠しきれない。
その狂おしさ、忍ぶ恋のそのつらさ。
 浅茅が原の荒涼とした景色の中。
ただ風だけが吹き渡り、篠の葉だけが鳴るのです。
 そこに立ってはそれをじっと見つめる人の目に映るそれは。
まさに叶えられないのに愛しさばかりが募る。
そんな心象風景でもあったでしょう。

 どうしてこれほどまでにいとおしいのか。
何故、これほどに。何故、何故、何故。
 篠の葉の立てる密やかな音はそうささやいているように、きっと聞こえた事でしょう。



 ほら、風鳴りが聞こえませんか。
 そして彼のその茫漠とした、目が。



 まるで彼の動悸までもが聞こえてくるようなそんな気がして、私の好きな歌です。
 好き、と言ってしまってはいささか軽い、そういう歌でもありますね。
 なんと言うかもっと、人を恋うると言うこの重さや影がずしりと響く。
 いっそ痛みを感じてしまいそうなのです。

 篠原の筆名はこの歌から取ったのだそうですが、さていったいどんな理由でこれを選んだのか聞いてみたい気がしますね。
 ある人は篠原自身が選んだわけではないのだ、と教えてくれましたが。
 普段からそばで姿を見ていますととても
「忍ぶ恋」
 に似つかわしい人とは思えないのですよ。
 ましてあのような心象風景、とはまったく似合いませんね。
 実際、多くもない知り合いには頑固の上に偏屈で通っているようですが、なに、ただの人嫌いの面倒がり。
 腹這いになって家に遊びにくる野良猫をからかっている所など、とても読者の方に見せられたものではありません。
 おっと、ここで書いてしまっては同じことですね。

 忍ぶ恋とは縁のなさそうな面倒がりの男を、たまには外に連れ出さなければ。
 いいかげん陽に当てないといつか黴でも生えそうで。
 しかしこれでは本当に、忍ばなくていい恋とも縁を持つことは、当分できそうにありませんね。
 私も同様なのは、まったくもって遺憾ですが。



モドル