百人一首いろいろ

水野琥珀



 我が家の庭の梅の花が、もう盛りを過ぎてはらはらと風に舞うようになりました。
 河津の、あの緋色の桜の花はそろそろ満開でしょうか。
 こんな時期にはこの歌を思い浮かべます。



逢い見ての のちの心に くらぶれば
昔はものを 思はざりけり



 琵琶の名手として知られた藤原敦忠の歌ですね。
 「拾遺抄」と言う「拾遺集」が勅撰集になる前の段階の歌集があるのですが、その中の詞書には
 「はじめて女のもとにまかりて、またの朝につかはしける」
 とあります。印象からすると、恋焦がれて逢えないつらさ、のようですが、どうやら後朝の歌だったようですね。
 しかし私としてはもどかしい狂おしさ、のほうを取りたい気がします。
 例えばこんな風に。



 やっと、手に入れたあなた。
その肌の温もり、匂い。
 恋焦がれて、ずっとあなたのことだけを想っていたこの手が、ようやくあなたに触れられたこの、歓喜。
 はじめて目にしたその表情、笑顔。
 ただ自分だけが見ることを許されたその頼りなげな目の、色。
 そのあなたが今こうしてここに、いる。
 どれほど、いったい。
 どんなに言葉を尽くそうとも尽くしえない、どうしようもないほどのいとおしさ、狂おしさ。
 こんなにも物狂おしいのは。
 そう、こうしてあなたを手に入れたから。
 あなたに触れるその前は、ただただ「いとおしい」それだけだったのに。
 あなたを想う、それだけで胸のうちが満たされるような気持ちになれたのに。
 なのに、いま。
 あなたの肌に触れ、柔らかい笑顔を見。
 そうしたらどうだろう。この身を焼き尽くすような不安、嫉妬。
 誰にも見せたくない、鎖につないで部屋の奥、閉じ込めて。そんな狂ったような妄想さえ沸くような独占欲。
 それもこれもすべて。
 あなたを得たから。
 なんて自分は単純だったのだろう。あなたを得たい、ただそれだけを願っていた頃にはこんな苦しさを知らずに、いたのに。



 こんな思いを抱えた事が、一度はあるのではないかと思います。
 ただ「その人」の事を考えているだけで幸せだったはずなのに、手に入れてしまってからは我が身を焼くほどの強烈な想いに支配される、そんな事が。
 私自身、「忍ぶ恋」の歌が好きですし、好きですからよく詠みますので、ついこの歌も人目をはばかる逢瀬だったのではないか、そんなことを考えてしまうのです。
 もしもそうであったならばより一層苦しさは増す事でしょう。
 なぜって、自分が逢えないその間、想いを口にのぼせることもできないその間も相手は当然存在するのですから。

 今あの人はなにをしているのだろうか。
 自分の事を少しでも想っていてくれているのだろうか。
 それとも。
 もしや他に誰か、が。
 いや、けしてそんなことはない、あの人の想いはこの自分に、けれど、でも。

 そんな逡巡にご経験はありませんか。
 どうにも自分、というものに自身のない私は常にそんな堂々巡りと二人連れなのですが。

 こんな都都逸もありますね。

 三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい

 これだとて軽やかな言葉づかいながら、なにやら切実なものを感じずにはいられません。
 後朝の朝に鶏がこけこっこ、と鳴いたのでは少しさまになりません。やはりここは物哀しく鴉に鳴いてもらうほうが艶ですね。
 その朝の時間を急き立てるような鴉の声が想いあう二人にはなんとも恨めしかった事でしょう。
 私はこの都都逸を耳にするたびに落語の「三枚起請」を思い出してつい笑ってしまうのですけれど、ね。
 私の記憶では確かこの都都逸の作者は維新の志士だったような気がするのですが、さてどうだったでしょうか。
 篠原に尋ねた所、新撰組贔屓の彼は
「維新の志士……誰がいたかな」
 といたって要領の得ない返事をするばかりです。
 重ねて問うても
「志士に興味はない」
 の一点張りです。
 そうは言ってもおそらく篠原の事ですから、誰の作か知っていて答えたくないのでしょう。
 意地が悪い、というよりむしろ子供の意地ですね。

 このあとちょうど来た知人に尋ねてところ、確かではないが
「高杉晋作ではなかったか」
 ということでした。
 これもまた曖昧な私の記憶で申し訳ないのですけれど、高杉晋作といえば戦場にまで特注の折りたたみ琵琶を持って行っては都都逸を歌った、ということ。
 どうやら不意にこの都都逸を思い出したのも、そんな「琵琶」の縁だったのかも知れません。




モドル