百人一首いろいろ水野琥珀もう、ずいぶんと春めいてきましたね。 日に日に花がほころび、水に温もりが増していく。 そういうのを感じるのが楽しくてなりません。 ですからぜひ今回は華やかな桜の歌でも、と思ったのですが、どうにもいけません。 私の世代だと誰もがどこか「桜」というものになにかしらの感慨を持っていると思うのです。 私が明るい桜を語れるようになるまでにはまだたくさんの時間がかかりそうですね。 ですから今回は山桜の歌にしましょう。 白い、痛々しいほどにか細い花とともに純な緑の葉が顔を出すんです。 なにか、嬉しいものです。そういうものは。 もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 知らなければ西行法師の歌のようですね。 やはりこの人も僧籍にあり、大僧正行尊の名で知られています。 西行法師はこのあと半世紀ばかり経った後の人ですから、そういう意味では大先輩、かもしれませんね。 金葉集に収められた歌で詞書に 「大峰にておもいかけず桜の花の咲きたりけるをみてよめる」 とあります。 大峰山は修験道の聖地ですから、厳しい修行の途中、ふと彼はこの桜に出会ったのでしょう。 桜よ、桜。山桜。 もう春か。 人知れずひっそりと咲く山桜よ。 木漏れ日が照らす姿のなんと、美しい。気高く白い華奢な花。無骨な枝からそっと咲く。白い影からのぞくのは生まれたばかりの、緑。葉。 お前は誰でもない。ただお前で、そこに在る。 誰かの為ではなく、ただ一人そうやってそこに在ってそして美しい。 あぁ、生きているの、だな。 桜よ、桜。山桜。 この寂寞の中、ただ一人お前がそこに立っているように、俺もまたただ立っている。 これは幽明の際か。 いや。 ここに在る。それでいいじゃないか。 あぁ山桜よ。 お前のほかにこうしてわかりあえるものなどおろうか。 在るというのは、生きているというのは良いものだなぁ、山桜よ。 極限の修行中、彼は「桜の声」を聞いた気がするのですよ。 それはただ生きている事の肯定だったのではないでしょうか。 苦しみのたうちながらも、生きていてしかできない事はたくさんありますものね。いえ、死んでしまってはなにも出来ないのですよ。 犯した罪、罪悪感。 そんなものを抱えながらでも生きていくんです。 そうして、何気なく見上げた空がきれいだった、星が満天に輝いていた。そんな時に生きている、そう実感するのかもしれません。 たぶん、幸せな人、というのは「生きている実感」を常に新しい気持ちで感じられる人なのかもしれない、そう思います。 そう、思っていても、頭で理解してはいても、私はだめなのですよ。 どうしても桜を愛しい思いで見ることが出来ない。 あの大戦で死んでいった戦友の笑顔が浮かぶのです。 死ななければならない理由などなにもなく、人を殺さなければいけなかった理由などさらにない彼等の顔が。 なぜ彼等の命は奪われたのですか。 どうして人を殺せ、と命じる事が出来たのですか。 人間の行動の最も下劣なもののひとつがここにあります。 自分の手を汚すことなく、他人の血を流させる事。 生き残って思います。 生きているのはつらい。けれど生きているのはこんなにも素晴らしい。 それを味わうことなく仲間は死んでいきました。 私が桜を愛でる事が出来ないのはたぶんその罪悪感でしょう。 私は陽の光にぬくもりを感じる。 けれど、彼らは。 そんな堂々巡りをしていた時に、篠原と出逢いました。 彼自身、あの戦争でたくさんのものを失いました。 教師だった彼の下に日々もたらされる教え子たちの死。 どんなに堪えがたいものだったか、想像すらできません。 戦争とはなんのかかわりもない、幼い命が奪われる。そしてここにいる自分はなにも出来ない。無力感。どうしようもない、絶望。 私だけではない、篠原だけでもない。あの時みなそれを感じたのではないでしょうか。 そしてまた。 翌年の春、焼け跡に小さな草の芽を見つけたとき、私たちはどれほどの歓喜を覚えたでしょう。 生きているというのはそういうことだ。 そう、私に教えてくれたのは篠原でした。 ただそこに在る「命」のいとおしさ。 それは自分自身の、世界すべてへの肯定にも繋がる喜び。 この山桜の歌もそういうことを言っているような、そんな気がします。 |