百人一首いろいろ水野琥珀前回はずいぶんと重たい話をしてしまいました。 ですから今回はちょっと華やかに参りましょう。 染井吉野はもうはらはらと舞い始めました。そろそろ八重桜が咲き初めるでしょうか。 八重桜、ぽってりと艶治でまるで豪奢な婦人のような花です。 そのせいか好き嫌いがはっきりとしているようですが、私はこの花、嫌いではありません。 なにかこう、春もたけなわになってきたな、と思わせるような気がするのです。 そして初々しくも感じるのはこの歌のせいでしょうか。 いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほいぬるかな 伊勢大輔という女房が新参の頃に詠んだ歌です。この人は一条天皇の中宮・彰子に仕えたお人で、彼の紫式部の後輩にあたります。 この歌は奈良から都へ八重桜が届けられた時に詠まれたものです。 宮中の事ですから届ける、と一口に言いましても儀式が伴うわけで、使者から桜を受け取る時に歌を詠む事になっていたのですね。 元々、重大なお役目ですから御前に捧げる人も決まっていました。それが紫式部です。 その役目を彼女は新参の伊勢大輔に譲ったのです。 伊勢大輔というお人は歌人の家の生まれですから新参の女房とはいえ、この華々しい場にはいかにもふさわしくあります。 と、そういった内容の詞書が「詞花集」にあります。 緊張に、喉がかきむしられる思いで彼女はいます。 震える声を抑えようと密かに深く呼吸をし。 目の前にはこぼれんばかりの八重桜。 唇に寄せたいような豊かでかつ可憐な花びら。 一枝ふた枝ばかりではなく、大枝でたっぷりと活けられたそれはまるでそこに木を移しかえてしまったかのよう。 濃い桃色をした婉然たる花。所々のぞく無骨な木肌。活けられているのは青磁の艶やかな瓶ででもあったろうか。 人々の視線が自分ひとりに集まっている。 さやさやとささやき交わす公達の声が聞こえる。 彼女は覚悟を決めて詠いだす。 「いにしえの」 どよめきが止まる。 はるかな昔の都。 いらかも美しい奈良の都。 いまは思い出と成り果てたあの奈良から今日、このように珍しい春の便りが参りました。 彼の地にはこんなに素晴らしい八重桜が咲くのです。 この八重桜がこうして御前に参りますと、京の都にすべての栄華が移ってしまったようではありませんか。 いえ、もう移っているのです。なぜならば九重の奥深く、この宮中にお上の影を慕って花までもが参りましたのですから。 誇らしげに咲くこの花はまるでお上の世を寿いでいるようではありませんか。 歌い上げると同時にわっと人々の歓声が上がった。向こう側で紫式部も満足げに笑んでいる。 こういったところでしょうか。 大役を果たした伊勢大輔はきっと歓声を聞いた瞬間、体中の力が抜け落ちたかの錯覚を覚えたのではないでしょうか。 もうずいぶん昔のことになってしまいましたが。 私の歌がはじめて雑誌に掲載された時、丸一日の間、呆けたようになっていた記憶があります。 そのあと何度も紙面を見直し、名前を見直し、落ち着かなくしていましたが、ようやく実感できたのは翌日の日も暮れてからだったようです。 うれしかったですね、それは。 なにを誇れるわけでもなく、歌を詠むことしか能がない、ただ一つの才を認めてもらえた、というのが本当に嬉しかったです。 それから多少雑誌にも載せていただけるようになりました。いまの名とは違う名でしたが。 私の覚えでは確かその名で載せていただいたのは十二首、だったと思いますね。 以後、事情もありなにより戦争がはじまってしまいましたのですっかり歌は捨てざるを得なくなってしまいました。 戦後、生き残った私は、生き残ったのが私だけだったことを知りました。家族はなく、親類の生死は知れません。 いまから思っても投げやりになっていたものです。 ひょんな縁で篠原と知り合い、歌は捨てたと思っていた私の手に歌を返してくれたのも彼でした。 楽しく毎日を送ることに罪悪感を覚えつつ、それでも折につけ歌を詠んでいたのですが、それを篠原が見つけたのですね。 もちろん彼は私が歌詠みであったことなど知りませんでした。 その書付を見た篠原がなんと言ったか。今でも鮮明に覚えていますよ。 「加賀沈香か?!」 「一度、会ってみたかった。あの戦争で、死んでしまったとばかり、思っていた」 そう、言ったのですよ。 なんだか恥ずかしいくらいよく覚えています。 まさに私はその言葉に命を与えられた、と言っても過言ではないくらいです。 歌詠みとしての出だしはあえなく頓挫しました。 大好きだった「歌を詠む」と言う事を捨てなければならなかった苦い思い。 それが私にまた歌を手にとることを躊躇させていたのですね、きっと。 篠原が私の詠んだたった十二首の歌を知っていてくれた、ということ。 その事実で「捨てた名」は「過去の懐かしい名」に変わりました。 以来、私は歌詠みであり続けています。 |