百人一首いろいろ

水野琥珀



 すっかり温かくなって、日中は時折汗ばむほどになりましたね。
 家の前を駆けていく子供らの声も幾分弾んでいるような気がします。
 私は「家事」というものにずいぶんまめな質のようで、こまごまと家の事をするのが嫌いではありません。
 今日も良い天気につられて洗った敷布が白く庭に翻っているのを見るのが、良い気持ちです。
 こんな日にはこの歌を思い出しますね。



 春すぎて 夏来にけらし 白妙の
 衣ほすてふ 天の香具山



 持統天皇の御製ですね。
 洗濯物で思い出すのも妙なものですが、つい連想してしまいました。
 今までしてきたような、いわば小説風に訳すほどもない平易な歌です。



 春も早、逝った。なんとも気のせく事。あっと思うまでもなく夏がきたらしい。
 夏。
 あれは夏であったか、どうか。
 帝と戦馬をともに駆けさせたのは。
 過ぎゆきた季節。それよりもなお、早く感じるほど、この春はあまりにも早く過ぎた。
 もう夏がきた、というのだろうか。
 夏がきた、と人は言うのだろうけど。
 夏。
 ならば天の香具山。麗しの山ではもう禊の季節だろうか。
 香具山の神は人の言葉の嘘真を見分ける、と聞く。
 水をかけ、衣を濡らし。
 あぁ宮居から見えるような気さえする。
 真白い衣が干されている、と聞くせいか。
 夏が、きたのだろうか。



 と遊んでみましたが、どうでしょう。違和感がおありではないでしょうか。
 百人一首には「新古今集」からこの歌がとられていますが、元々は「万葉集」に載せられた歌です。
 もっとも少し、形は違いますけれど。
 万葉集のほうは



 春すぎて 夏来たるらし 白妙の
 衣ほしたり 天の香具山



 ですね。
 試みにこちらも訳すなれば、どうでしょう。こうもなりますか。



 早、春も逝った。夏がきたのだ。もう、そこまで。
 天の香具山の美しい事。あの緑、息づく命。
 さんさんと照る光に乙女は禊をするのだろうか。
 神の庭、香具山。神の水に清められた乙女の衣が。
 白い衣、香具山で禊する乙女の斎衣の白くひるがえる様まで。
 あぁ見えるようではないか。
 夏がきたのだ。



 こういうところでしょうか。
 ずいぶん感じが違いますね。
 万葉集にとられていたこの歌を改変したのは藤原定家といわれています。
 定家の時代には香具山の伝承も少しばかり変わっていた事でしょうし、持統天皇のこのお歌はいかにも一筆入れたくなるような、そんな歌だったのではないでしょうか。
 改悪、と言われた時期もありましたが人それぞれの好みでいいでしょう。
 ちなみに篠原に尋ねて見ますと、彼は万葉集のほうが好きだそうです。
 理由は、といえば
「きっぱりしていて、いかにもあの時代の女帝らしい。新古今のほうは伝聞だの推量だのが甘ったるくていけない。自分の男と一緒に戦場を駆けた女らしくない」
 だそうです。
 一理ありますね。
 篠原はなににつけ、自分ではっきりとなにかを決めて動く、ということのない人ですから、こういう歌のほうが好ましいのかもしれません。
 この手の人が一度決心するとたとえそれがとんでもない決心であったとしても、もう梃子でも動かない、と言う事は得てしてあるものですけれど、ね。

 話がそれました。
 私自身はどうか、と聞かれればどちらかといえば新古今のほうが好みか、というところです。
 どちらかと言えば、なんていう婉曲な事を言うのはどちらも味わい深く良い歌だ、と思うせいでしょう。
 定家の筆が入っているとはいえ、持統天皇の息吹の消えてはいない新古今の歌。
 これが私には晩年のため息のように聞こえるのです。
 夫とともに野山を駆け巡り、勝ち取った帝位。夫というのは天武天皇ですね。
 勝気で活動的な人だったのでしょう。帝が崩ずると間髪をいれず、わが子の帝位を脅かす存在である大津皇子を誅しています。
 ただしこの皇子は己の腹を痛めてはいないとは言え、愛した夫の子でもありました。
 しかしそこまでした我が子は夭折、あと継ぐ孫はまだ幼い。
 彼女はその手に帝位をつかみました。愛する孫に確実に渡す、ただそのために。
 苦労して、苦労して勝ち取った帝冠も渡すべきものがいない。
 きかない体に鞭打つようにして持統天皇は都を守り育てていきます。
 女性というのはやはり守成に向いているのでしょうか。
 藤原京を作り、宮廷歌人らを輩出せしめ大和歌の形となった和歌の黄金期を成さしめ、律令を整え。
 さすが、と脱帽するよりありません。
 それもこれもいとしむものにこの国を与えたい、という「母なる思い」から出た事なのでしょう。

 偉大なる母、祖母の下に暮らした子供がいったいどうそれを感じていたのか、知る術はありませんが、きっとそんな持統天皇を恐れもし、従いもしつつ愛していた事と信じています。




モドル