百人一首いろいろ水野琥珀もうそろそろ各地に梅雨入り宣言の出るころでしょうか。 今日もうっとうしい雨が降っています。 けれどこの雨が降らないと困った事になる仕事もたくさんありますし、水不足も大変ですし、我慢どころですね。 今夜、我が家から月は見えませんが今日はこんな叙情的な歌をひとつ。 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし 壬生忠岑という人の歌ですね。古今集の選者の一人なのですが、位の低い官吏であったらしく詳しいことはわかりません。 むしろ「恋すてふ」の壬生忠見の父親、と言ったほうが通りがよいかもしれません。 息子・忠見の歌はまさに絶唱と言うべき歌ですが、この歌も調べの良さ、切なさがたまらなく良い歌だと思います。 かの定家もこれほどの歌ならばこの世の思い出になる、とまでに褒めちぎっているのですよ。 歌意としてはこんな所でしょうか。 有明の月、陽が射し初めるころまで残っている白々とした月。 濃い、薄い紫の空にかかるその美しさ。 それがなんて恨めしいんだろうか。 もっと、ずっとあなたのそばにいたい。 片時だって離れていたくないのに、陽が上る前には帰らねばならないこの世の習い。 月さえもが恨めしい、とは本当にこのことですね。 なんてつれない色をしているんだろう。 さやかな月が、煌々と照っている。 別れを惜しむうちに早、光は失せ始め空が桃色に染まる。 つれないのは月かあなたか。 思ううちにも刻々と空は明けていくのです。 後ろ髪を惹かれる思いをして私はあなたの元を後にするのです。 そうして帰ってきてから、というもの私の心は暗く沈んで暁を見てはただため息ばかり。 こんなに暁、というものがつらいとは知らなかったのですよ。 あなたと離れるその時よりも、ただひとりこうして暁に座してそれを思うことのほうがずっと苦しい、だなんて。 王朝の恋人はまったく大変でした。 男が女の元に夜、訪れそして朝になる前に帰っていく、というのは広く知られたことですが、星がでている夜はどうの月がどうのと制約がとても多くあったといいます。 ですから朝別れた恋人の元にその晩もまた通える、と限ったものではないのですね。 けれどだからこそ、このように美しい歌になるのかもしれません。 もしも私が王朝人だったらきっと耐えられないと思いますけれど。 そう言えば今回この歌にする、と雑談していましたら、博学な篠原らしくもなく 「会いたいのなら会いに行けばいいじゃないか、うじうじと」 といささかご機嫌斜めでした。 梅雨時で体調が優れないのでしょうがあまりにも乱暴な物言いですね。 そんな思いが顔に出ていたのでしょう。 「物忌みだって外出すする方法があったんだ。月の星のとそれくらいで通えないわけもあるまい」 そう言葉を足しました。 言われてみればなんだかそんな気がしてきてしまうのが彼の言葉の恐ろしい所なのですが、ここは歌の快さにそれを忘れる事にしましょう。 事のついでに彼ならばどうするのか、と尋ねてみましたなら 「うだうだ悩むのは性に合わん。いつもそうしているつもりだがね」 そう彼一流の笑い方で逃げられてしまいました。 私ならばどうするでしょうね。 やはり篠原と同じような気がしなくもありませんが、私はもっと思い切りの悪い性格ですから一晩や二晩はじっと悩んでいるかもしれません。 けれど結局、禁忌を破ってでも恋人の元に行くような、そんな気がします。 壬生忠岑はどうしたのでしょうか。 私としてはそうやって会いに行った、という風に思いたいのです。 今回、私は「夜明けの別れのせつなさ」と言う解釈をしましたが、この歌は本来、古今集に入れられている歌で、恋の部にあります。 前後には会えないつらさ、女のつれなさを歌った歌がありますので、この歌も 「女を訪ねて行ったのだけれどもつれなくされて会ってもらえず、有明の月までもがつれなく見える。それ以来、暁というものがつらくてならない」 そう解釈する場合があることを添えておきます。 私としては「つれない月」というものを女のつれなさになぞらえるのに少し首をひねりましたので、別れの切なさのほうを取りました。 ちなみに絶賛している定家もこちらを取っているようです。 この辺りは各人の好みでいいのでしょう。 良い歌は良いのです。 そうそう、「ついで」ばかりですが事のついでに篠原にもどちらを取るか尋ねてみました。 答えは 「つれなくされたことがないから実感がない。よってわからん」 という人を食ったものでした。 まったく余計事ですが「つれなく」しているのはどうも篠原のようです。 私の知る限り篠原が甘い顔をするのはひとり、ふたりという所でしょうか。 今回はずいぶんと雑談ばかりになってしまいましたね。 |