百人一首いろいろ

水野琥珀



 生きていれば、運もあれば不運もあり、幸福もあれば不幸もあります。人生万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄の如し。昔の人は巧いことを言いましたね。
 実にもっともなことです。ですがやはり、つらいものはつらいのです。そんなとき、私はこの歌が浮かびます。



 ながらへば またこのごろや しのばれむ
 憂しと見し世ぞ いまは恋しき



 藤原清輔朝臣として百人一首に載っています。清輔は王朝末期の有名な歌人で、「古今集」にこの歌が題知らず、として収められています。
 詞書には「昔を思い出して云々」とあるのですが、この歌を贈った相手が本によって異なっていますので、研究者の間でも清輔がいったい幾つのときの歌か、諸説様々、定まっていないようです。
 大まかには、三十代前半か、あるいは六十代はじめの二説と言うところらしいのですが、ここではどうしましょうか。まず訳に参りまして、その後に決めましょう。



 この先もまだ、生き長らえてしまうのならば、あるいは思うのかもしれない。
 こんな日々ですらも、懐かしい思い出と感じる日が。つらいことばかり、苦しいことばかりのこの日々が。
 だって、昔のことを思うのだもの。あんなに哀しかったあのころが、今は懐かしく思うのだもの。遠い、記憶として。
 つらいつらいと苦しんでいたあのころが、いまはなぜだろう。恋しく思える。
 だからきっと、いつか。このいまが過ぎてしまったいつかは、きっと。
 こんな思いですらも、懐かしく思い出すのだろうね。



 一読して、共感を呼ぶ歌だと思います。あぁ、あんなことがあったな、と昔を振り返ることは誰しもあることではないでしょうか。
 この歌は下の句が、現在です。昔のことを今は懐かしく思うことができる、と言っていますね。対して上の句が、想像です。いま、このように思うことができるのだから、未来の自分もそう思うだろう、と詠んでいます。
 そこに私は儚い諦念を見ます。ですから、これは六十代の、老いて後の歌、と見てもいいのでしょうし、そのほうが当然かなとも思うのです。
 けれどこの歌にはどことなく、引っかかるものがあるのですよ。言葉は悪いですが、若さゆえの気取りとでも言うような何か、です。
 老いの身の、鮮やかな諦めではないよう、私は思います。まだまだ気概がある。そんな自分を一歩離れて見やっては、誇りに感じているような、そんな気がします。
 もっともこれは単なる私見ですので、清輔がいつ、どんな気持ちで詠んだかは、わかりません。
 つらい境遇にあったことは、確かでしょうね。いまも過去もつらい、と言っているのですから。この身の不幸を嘆きながら、緩やかな諦観を表現する。
 あるいはそれは、そうとでもしなければ、とても耐え切れない幽愁だったのかもしれないな、と思います。
 いったい何がそれほどの苦しみだったのか、清輔は語りません。ただ、父とは長い間不和であったようです。
 清輔は、俊成よりだいぶ年上で、当時の大歌人です。父も祖父も有名な歌人でした。彼の家を屋敷のあった場所から六条家、と呼び、歌の家柄、歌学の家柄として著名です。
 俊成・定家父子が打ち立てた家を、御子左家といいますが、彼らの時代になって六条家が衰え、圧迫されていくまで、摂関家の歌の師を務めるのは決まって六条家でした。
 そういう家柄に生まれた清輔ですが、先にも言いましたよう、父とはどうにも巧く行きません。互いに歌人であったからか、それとも性格的にあわなかったのか。黙して語りませんが、父が勅命で歌集を編むときにも、清輔の歌は一首たりとも取られませんでした。
 歌人として、自負がある分つらいことだったでしょうね。その後、御位が変わった後、今度は清輔が歌集を撰進することになりました。
 清輔はどんなに励んだことでしょう。父の歌はいれない、と考えたでしょうか。彼の本当の気持ちはどこにあったのでしょうね。
 ですが、ここでまた清輔は不幸に見舞われます。歌集を捧げるはずであった天皇のあっけない崩御。歌人としての究極の名誉が、絶たれます。
 歌の道に勤しめば勤しむだけ、苦しみが返ってくるような日々ではなかったか、そのように思います。どれほど努力しても、つらいことが待っているのですよ。
 私など、考えただけで怯んでしまいます。まして清輔が生きた時代は、保元・平治の乱の最中です。殺伐として世の中に、歌人の心はささくれていくばかりであったことでしょう。
 有名な歌人と評されればされるだけ、清輔は苦しんだのではないか、そんな風にも思います。名高いといわれるだけは、あったのでしょう。それならば鋭く繊細な目を持っていたことでしょう。
 その清輔を度々襲った不幸は、あるいは歌才がなければ耐え得るものであったかもしれません。歌を詠む才能があればこそ、清輔は苦しんだ。
 それを彼自身はどう思っていたのでしょう。聞いてみたい気がします。当時の評価も、彼の苦痛もよそにおいて、現在においてもこの歌は愛されています。歌人としては、勅撰集を編むより名誉なことではないか、私はそう思います。



 私は今でも先の大戦のことを懐かしいとは、まだ思えません。いつか、そんな日が来るのでしょうか。来ればいいな、と思います。
 あのころはとても言えないことでした。ですが当時の私は夢を絶たれ、希望を失くし、戦うことより死を願っていた、そんな気がします。
 ごく若いころから、歌を詠むことが好きでした。いつかこの道で身を立てることができたなら。いえ、身過ぎ世過ぎはどうでもよかったのかもしれません。
 ただ、歌が詠みたかった。それだけでした。ですが、戦争はそれを許してはくれませんでした。
 どうなのでしょうね。いまでも恨んでいるのかな、と思えばそれも違うと思います。懐かしくは、ありません。いまだ胸に痛みがあります。散っていった知人のことを懐かしく思いこそすれ、時代そのものを懐かしむことはまだできません。
 清輔の心境には、なれませんね。もしかしたらそれは、私は彼よりずっと幸福だからかもしれません。
 一度は絶たれた歌の道でした。そんな私を拾って育ててくれたのは、篠原です。
 若かったのでしょうね。一度絶たれた道ならば二度と歩むまいと決心していた私を、呆気なく翻意させたのが、篠原です。
 篠原との出会いが、私を変えました。あの日の出会いに心の底から感謝したい思いでいっぱいです。生きていれば、いい日にも巡りあうことができる。あまりにも陳腐ですが、この言葉を百人一首の最後の歌に添えたいと、そう思います。




モドル