百人一首いろいろ水野琥珀朝晩は幾分すごしやすくなったようですが、この時期に吹く風を秋風、と言うのでしょう。 柔らかい、一度の涼風が吹くかと思えば、ちょうど台風の時期でもありますね。 こんな歌があります。 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ 文屋康秀の歌ですね。この歌は古今集の秋の巻に「是貞親王の歌合せの歌」として出ています。 洒脱な冗談がおかしみを誘う歌ですが、どうもあまり人気のない歌のようです。 というのも我々、現代の感覚ではすっとおかしさがわからなくなっているからなのですが。 古今集、といえば名歌、雅歌の集大成、と言っても良いと思います。 その中にふとこんな歌があると、肩の力を抜いてまた新たな気持ちで歌集を読むことが出来て、私はとても良いと思うのです。 冗談の解説をするようで気が進みませんが、訳すとすればこのようなものになるでしょうか。 それにしてもまぁよく風の吹くことだねぇ。 あんまりひどいものだからすっかり草木もしおれてしまって。 ふむ、なるほど。 荒々しいから「あらし」ねぇ。 おやおや。 山風、だから「嵐」かね。 まったく山の風、と書いて嵐と読ませるとは上手いものよ。 おぉ、寒い。 あぁ、やりにくい事この上ないですね。 台風からの連想でしたが、ここで言う山風はそのまま、山から吹き降ろす風のことで、秋の終わり冬が近い事を知らせる風です。 軽い読みぶりが楽しい歌ですが、技巧を凝らしてもあります。 またその技巧を感じさせないおかしさが良い、とそれに尽きるのですがなんとも現代語訳のしにくい歌なので、何度か唇に乗せ声に出してみるのがいいかもしれませんね。 現代で人気がない如く、紀貫之もこの人の評価を非常に低く見ていたようです。 古今集の序に 「文屋康秀は言葉の使い方は上手いがそれだけで内容の伴わない歌詠みだ。言ってみれば商人が上等の衣服をまとっているようで品がない」 とまで書いています。 その上、序に引用された歌は間違えられていますし、踏んだり蹴ったりと言うところでしょう。 とは言え間違えられる、ということは反面、人口に膾炙するうちに変貌していった、とも考えられますのでそれだけ民衆に愛された歌、とも言えるかと思います。 連想はまた台風に戻ります。 先日の台風で我が家、と言いますか私が居候をしている篠原家の庭もずいぶん傷みました。 篠原は書くものに似合わず、あまり庭だの草木だのに興味が無いようで、自然その手入れは私の仕事、ということになるのです。 しかしこの台風ではどこからか飛んできた物で梅の枝が折れたり、野ばらが倒れたりとあまり被害があったもので珍しく、 「ひどいな」 と苦い顔をして私の仕事を手伝っていました。 篠原に言わせると、 「庭に興味はないが、梅は嫌いではない」 ということらしく、まったく素直ではありませんね。 確かに几帳面に手入れをする姿、などというものは想像もできませんが、梅の木だけは偏愛しているようです。 花の時期には木の下で、放っておけば何時間でも惚けていますし、実の色づくころは傷んで使えない実を小鉢に入れては手元において香りを楽しんでいます。 ですから台風で梅の枝が折れたのがずいぶんと堪えたようでした。 そうでなければ庭仕事など手伝うものですか。 余談ですが、我が家の梅の木はたくさん実をつけます。 傷がついてしまったものは前述の通り篠原が愛でるのですが、私はそう優雅にもしていられません。 毎年、梅干を作るのが恒例なのです。 あまりにたくさんの実をつけるものですから篠原と私だけではとても一年では食べきれないのですけれどね。 わたし自身、決してこういう作業がきらいではありませんのでこの頃では毎年の楽しみにすらなっています。 ずいぶん話がそれました。 台風で傷んでしまった庭の手入れをするついでだから、と言って 「水仙を、植えたい」 そう篠原が球根を買ってきました。 気の早い店がもう秋植えの球根を売っているのですね。 篠原の希望で梅の根元に植えてみました。 来年の春には咲く事でしょう。 私もそうですが、篠原も外国の華やかな水仙より、日本に自生しているものの方が好みのようです。 鮮やかな大振りの外国水仙も悪くはないのですが、篠原曰く、 「日本のものの方が香りが強く端正だ」 と、その毅然とした姿・香りを好んでいるようです。 私は日本水仙の旺盛な繁殖力も好きですね。 何年かすれば梅の根元はきっと水仙の濃い緑の葉で覆われることでしょう。 風が吹けばざわざわと鳴ることでしょう。 木の葉擦れの音は心安らぐ音ではありませんか。 以前、篠原とともに出かけた爪木崎の水仙のあのすさまじさ。 風が吹くたびにうねる緑の波。 先日の台風ではどうだったのでしょうか。 飛沫を上げ白くあわ立つ波頭、潮が飛び散っては風に舞って。 それに呼応するように水仙の緑の波が風に翻弄される様。 まるでこの目に見えるようです。 台風が過ぎ去り、落ち着くころにはもう、今度は山風が、秋が。 山風、という言葉に留まる事のない季節の早さを私は、感じます。 |