百人一首いろいろ水野琥珀秋はどことなく、物思いに沈みやすく、またその心持を楽しんでいるような気がします。 ただひとり、夜の闇にたたずんで月を見るともなしに見る、というのも秋らしく思いますね。 秋の月がことのほか美しいのはそんな思いで眺めるせいかもしれません。 こんな歌があります。 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一人の 秋にはあらねど 大江千里の歌ですね。 ちょうど前回ご紹介しました「むべ山風」の歌と同じ歌会のために作られた歌です。 この人は和歌の上手でもありましたが、大江家はそのころ指折りの漢学者の家柄でもあります。 ですから当然、漢詩文にも通じていた事でしょう、漢詩特有の技巧を綺麗に取り込んでいます。 この歌の場合では、「ちぢ」は「千々」ですから、「一人」が対応しています。 けれど技巧が前面に出過ぎないところか素晴らしい、と思うのです。 大江千里には「大江千里集」とも「句題和歌」とも言われた歌集があります。 宇多天皇の勅命で漢詩を題に和歌を詠み、それを献上したものです。 この「句題和歌」という歌集は当時の風潮からでしょう、白楽天の詩からのものが非常に多いのですよ。 その占める割合は百二十五首中、七十四首、というほどです。 それが当時の好みでしたから、「句題和歌」には見えませんが、「月見れば」の歌も白楽天の詩を下地にしている、と思って間違いはありません。 白楽天の詩にこうあります。 満窓の明月 満簾の霜 被は冷ややかに灯は残れて臥所を払う 燕子楼中 霜月の夜 秋来 只だ一人の為に長し どうでしょう。 少し感じが違うと思いませんか。 ただ翻案するのではなく、ただ一人のために長い、と言っているところをひねって、私ひとりの秋ではないものを、とするところなど、生半な漢学者でも歌詠みでもない、才気煥発さを感じさせます。 このころはちょうど紫式部や清少納言のでてくる百年ほど前のことです。 和歌と漢詩が歩み寄り始めた時期、とでも言いますか、そのころにこのあふれ出るばかりの才能はさぞもてはやされた事と思います。 秋の月は、どうしてこうも物悲しいのだろう。 射しこむ光は煌々と、庭に降りては一面の霜のよう。 触れたらあの光は冷たいのだろうか。 あなたに触れたら、冷たいのでしょうか。 どうにもならない思いがさまざまに駆け巡って、それでも私はただ、こうしているより他なくて。 あまりにも遠いあなたを思う。 白楽天は歌いました。被は冷ややか、と。 私もまた歌いましょう、泣き濡れた袖が絞れるばかり、と。 まるで秋の物悲しさが私ひとりに襲い掛かりでもしたように、ひとり悲しいのです。 秋は誰にでも来るものなのに。 等しくみなが思いに沈むなら、あなたもまた……。 いえ、期待はしません。 そうしてまたひとり、沈んでいくのでしょう、私は。 平安の貴族たちの間で、絶大な人気を誇った白楽天の詩を、彼等がこの歌から想像できなかったわけがありません。 浮かぶ満月、被の冷ややかさそんなものまでも見て取れたに違いないのですね。 ただ元の白楽天の詩では事情が違います。 彼が若いころ、地方に旅行したことがありました。 そこで張長官、という人を尋ねた所、長官は自分の愛姫までも宴席に出して歓待してくれた、ということがあったのですね。 それから十余年、長官が亡くなった後その愛姫はひとり燕子楼というところで操を守って孤独に暮らしている、というのを人伝に聞き、詠じた詩なのです。 ですから被は冷ややかというのは亡くなった長官を思いつつ眠る愛姫のひとり寝の寂しさ、なのですね。 白楽天の詩では思い人は亡くなっていますが、大江千里はひねりを効かせていますから、私も訳をする時に「なかなか逢瀬を持てない思い人」という訳にしました。 実際はどうだったのか、定かではありません。どうも歌合せの歌、というのは私見ですが、美しく技巧に富んでいても、中から感情をすくい出すのが難しいようです。 大江千里に習い、私もひとり月を眺めて見ましょう。 西洋では月は狂気をもたらす、とも言うそうですね。 そのせいでしょうか、月影に思い人の姿が見えるようでもあります。 銀に染まった庭の木々は冷ややかでありながら、どこか暖かでもあります。 月の光、というのはそういうものでしょうか。 目蓋を閉じれば思う人の姿がくっきりと。 こんな風に姿を思っている、などと知ったら「あのひと」はどう思うことだろう、そう思えば自然と笑いが浮かびます。 千里ならぬ私は物思いに沈むことなく楽しい月見になってしまいそうです。 ここは李白と洒落こみましょう。 こっそり酒の用意をして縁側に戻れば、ちょうど月は中天。 杯を挙げて明月を激え 影に対して三人となる というところですね。 月と私と私の影と、三人で心ゆくまま秋の夜長を。 そう思う間もなく、影がもうひとつ。 篠原が呆れ顔でそこに立っていました。 |