百人一首いろいろ水野琥珀片恋、なんとなく美しい言葉だと思いませんか。 甘く、どこか酸っぱいような青春の思い出につながるからかもしれません。 しかし大人になってからの片恋、と言うのはどうでしょうか。 こんな歌を思い出します。 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころかな 源重之という人の歌です。三十六歌仙にも入っている人ですね。 勅撰集に入れられた歌は六十六首、たいした歌人です。 どうもそれらを見ますとずいぶん色々な所に赴任しているのですね。当時の歌人としては、というより貴族としても見聞が広かったようです。 この歌は「詞花集」に収められているもので詞書によれば冷泉院がまだ東宮でいらした時に百首の歌を奉った物のうちの一首、ということです。 初恋ではない、大人にもなりきれていない、そんな時代の片恋の歌のように私は感じるのですよ。 風のなんと激しいことよ。鈍く轟く海鳴りの音、風に煽られる波の白さ。岩に砕けて散っていく波。 まるで我が姿のように。 波は私か、砕け散る我が心か。 岩はあなただ、あなたのその、頑なな心。 煽られ砕け散って行く私に、ちらとも心を動かさないあなた――。私一人が砕け散るのか。 それでも思い切れないあなたのために、心砕けてしまいそうな――波の如くに。 凄絶な感じがしませんか。言葉では上手く表現できないのですが、最前私が「初恋でも大人の恋でもない」と言った意味がお分かりいただけたと思います。 なんと言うのでしょうね。 初恋らしい率直さうぶな思いというのではないのです。 かと言って大人の芳醇さ、というのでもない。 青年期のはじめ、まだ恋と言うものの幸福もそれ故の地獄も知らない、熱い思いだけがあって言葉足らずでさえあります。 一読してすらり、と意味の飲み込める歌ではありません。 けれどもそれがこの歌のよさではないかと思うのですよ。 何度も、まるで重之がまくし立てる言葉を尋ね返すように読めばこれほど味わいのある歌もないのではないでしょうか。 あぁ、恋しい人がいるのか。 どうやら片思いらしい。 ははぁ、相手は連れないのだな。 けれども思い切れない……。 そんな風に順々に入り込んでくる歌、というのもまたいいものです。 まるで嵐の海の岩の上、ただ一羽立ち尽す海鳥のような凄愴美。 そしてきっとその「美」というのをこの重之は知っているのでしょう。 そこに青年らしい若さの驕りを感じて、私は好きですね。 いずれにしても片恋、というものは美しい。 現実ではなく、自分の心の中だけで構築し、発散する、例えて言えば自分だけが読む小説のようなものだと思うのです。 だからこそ美しいのではないか、と。 そんな事を考えていたある日、たまたま篠原に尋ねてみました。 片恋、取り分けて青年期の片恋とは美しいものではないか、と。 「まず青年期、と言うのがいつ頃までかによるな」 「さて、そう言われてみれば困りますね」 「だいたい三十歳ほど、かな」 「それは少し長すぎませんか、下限はどうです」 「下限なんて言うものはないね、自分がもう大人だ、と思った頃から人は青年になるのさ。上限はまぁ自分の経験、ということにしておこうか」 なんとも理屈っぽい篠原の物言いですが、とりあえず認めない事には先に進みませんからそういうことにしましょう。 しかし「自分が大人と思ったときから」と言うのは良いですね。 青年、というあやふやさを象徴している気がします。 「青年の片恋……か」 篠原はなにか思うところがあるような。 「お前が思うように恋ゆえの地獄とやらを知らないとは思わないね」 「そうですか」 「知ってるさ、知ってるからこそ悩む。辛い、この上なく辛い。手に入れたい、でも相手を自分が不幸にするかもしれない恐怖、とてもじゃないが美しい思い出、ではないね」 「その恋が成就したあとでもですか」 「思い出すだけで胃が痛くなるね」 「ほう、そうでしたか。でもね、篠原さん。なにもあなたの『具体例』を訊いたわけじゃないのですよ」 少しばかり意地悪な物言いだったでしょうかね。 むすっと黙って口をきいてくれなくなってしまいました。 つい、と立って仕事机に行ってしまったのでしばらくそうしてご機嫌斜めをやっているつもりなのでしょう。 私も少しからかいすぎた、と思っていたところなのでほうじ茶を、それも炒りたてのを淹れて持っていけばにやりと笑って機嫌を直してくれました。 偏屈で気難しい篠原、という印象の強い彼ですが、案外こんな所もあるのですよ。 片恋の凄愴美も確かに美しい。 でも篠原の話を聞いていたら、なんだかただ黙っていてもお互いが判り合える、そんな老夫婦のような愛情というのも美しいのではないだろうか、そんな気になって来ました。 思い返せば私自身、ずいぶんと胃の痛むような思いをしましたもの、「思い出すだけで胃が痛い」と言った篠原は確かに正しいのかも、知れないです。 |