百人一首いろいろ

水野琥珀



 夏の夜もずいぶん短い、と感じる今日この頃ですから、いっそ今回は「長い夜」の歌をご紹介することにしましょう。
 長い夜、と聞いてご想像になるのはいったいどんな長さでしょうか。



 嘆きつつ ひとりぬる夜の 明くるまは
 いかに久しき ものとかは知る



 右大将道綱母の歌です。どうです、ご想像の通りでしたか。
 言わずと知れたかの「蜻蛉日記」の作者ですね。
 よくあることですが、名前のわからないこの女性の事を子の名をもって右大将道綱の母、と呼びます。
 「蜻蛉日記」の中で語られた夫こそ、東三条摂政兼家ですね。
 兼家のまだ若かりし頃、右兵衛佐という軽い身分の頃に交わした歌であったと言われています。
 「蜻蛉日記」の中のこうあります。
 天暦九年の十月末、三夜ばかり続けて兼家の訪れなかった事がありました。
 と、明け方ほとほとと戸を叩く音がします。
 彼女は戸を開けはしませんでした。
 というのもこの兼家という男、非常にまめと言いますか、上は内親王、下は町の小路の女までとかく美女と聞けば歌を贈っては交際をする、そんな男でした。
 近頃もどうやらまた新しい通い先が出来たらしい、彼女はそれを知っていました。
 彼女はと言えば、「三十日三十夜は我が元に」と念じるような悪く言えば独占欲が強い、よく言えば愛情の濃い女性です。
 怒って戸を開けなかったのも故ないことではないでしょう。
 そして困った事に彼女は怒り続けるには、また見限るには手の打ちようもないほどに夫を愛していたのでした。
 いつも側にいて欲しい、と願っても叶わないことに絶望しつつ、夫の一挙一動に狂喜し、また打ち沈む。それは泥沼のような日々であったに違いありません。
 翌朝になって彼女はこの歌を贈ります。

 今夜もまた、あなたのお出ではなかった……。
 ため息つきつつ目を開ければまだあたりは闇の中。
 隣をさぐっても冷たいままなのね、やっぱり。
 あなたは今夜もお出でにならない……。
 今ごろ「どこか他」でゆっくりと温まって楽しい時を過ごしているのかしら。
 私がこんなに辛いのを知りもしないで。
 こんな事を考えながら待つ夜明けがどんなに長いものか、あなたはご存知じゃないのね。

 と――。
 詠まれた歌は色も褪せ、枯れかけた菊の花の一枝に結ばれていました。
 言い訳も添えて、兼家は返します。

 いやだな、夜前にあなたのところにきたんだよ、本当に。それなのにあなたが戸を開けてくれないものだからここで夜明かししようと思ったのに、間の悪い事に禁裏からのご使者。これじゃ行かないわけにはいかないって、わかるだろう。「どこか他」で夜を明かしただなんて疑われても仕方ないけどね……。

 げにげにや 冬の夜ならぬ 槙の戸も
 遅くあくるは 侘しかりけり

 いやいや本当に冬の夜の長さも辛いけど、戸だって開くのが遅いのは辛いものですな。

 兼家は彼女の「夜の明けるのを待つのが辛い」を受けて戸だって、と詠んだのですが、それさえも彼女は「しれしれと受け答えをして」と怒るのです。
 何をやっても怒るような印象を受ける彼女ですが、どうでしょうか。私にはどことなく可愛らしい女性に見えて仕方ありません。
 一途で素直に怒る、この時代の女性としては珍しいほど感情の激しい人だと思うのです。
 また、それほど深く兼家を愛していた、ということでもありましょう。
 また彼女は「色葉抄」によれば本朝三美人の一人、と数えられているほどの美女。
 そして「蜻蛉日記」を成すほどの文才に恵まれた女性でもありました。
 「蜻蛉日記」の中で、彼女は邪推し、意地を張り、度々怒り、けれどだからこそ鮮やかに愛した夫の姿を書ききっています。彼女の書く兼家の姿のなんと魅力的なこと。
 ですから私はより一層彼女が愛らしい女性に見えるのです。



 寒い中、締め出された兼家はどんな気持ちでいたのでしょうか。
 立場は違えど締め出された経験者に伺ってみますと、
「この上なく惨めで情けない気分ではあるが、自分が悪いのだからまぁ、仕方ないと諦めもした」
 だそうですよ。
「想像するがいい。あたりは真っ暗、それだけでも惨めな所に『猫』まで締め出されたのか足元に擦り寄って寒そうに、にゃー、だ。これほど情けなかったことはない」
 薮蛇でした。思い出させてしまったようです。
 憤然とする篠原はお茶でも入れて懐柔することにしましょう。
 なにたいしたことはないのです。と言ったら彼にまた叱られるでしょうが。
 ある日、外出する、と言って篠原が出かけたのはちょうど昼過ぎだったでしょうか。
 親しくしている叔父の所に行く、と言っていたので帰りはきっと遅くなるだろう、と思ってはいたのですが……帰ってこないのですよ、これが。
 いい加減あきれて鍵をかけて私は寝てしまったのですが。
 篠原が帰宅したのは夜中も夜中。そして彼は家の鍵、というものを持って出かけなかったのですよ。
「だから私は仕方ないがね、寒いなか猫まで締め出して」
 まだ怒っています。あてつけがましく
「なぁあの時は寒かったものな」
 などと猫の背を撫でたりして。
 と、猫が鬱陶しそうに一瞥したかと思うと軽く彼の手を噛んでさっさと避難してしまったではありませんか。
 猫にまで愛想尽かしを食らった可哀相な篠原にひとつ熱い茶を淹れなおして差し上げることにしましょうか。




モドル