百人一首いろいろ水野琥珀前回はわかりにくい歌、というのをあげましたから、今回は調べ美しく、わかりやすい歌をあげる事にしましょう。 秋、と言うのは何故かそれだけでなにか物悲しいような思いに囚われる季節ですね。 夏の暑さと活気がふと気づけば薄れている。耳を澄まし目を凝らせばそこかしこに秋の影。 そんな時に人は物悲しさを覚えるのでしょうか。 こんな歌があります。 あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 柿本人麻呂の歌、とされていますがどうやらこれは違うようです。『万葉集』巻十一に 思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を という歌があり、その註に「或る本の歌に曰く」として冒頭の歌が詠み人知らずとして掲げられています。 いったい何時どういった経緯で人麻呂の作と擬せられたのか詳しいことはわかっていません。 最も人麻呂自身、七世紀の宮廷歌人である、ということ以外に経歴はほとんどわからないのですからそれもまたふさわしいのかもしれません。 歌自体は柔らかな調べに整えつつもわかりやすいものですね。 山鳥は寂しくないのだろうか。その長い尾のように長い秋の夜。長い、などと言うものではない。長々しい。いまいましいほどに。 そんな長い夜に、山鳥は離れ離れで寂しくないのだろうか。 きっと恋しく思っていることでしょう。 私があなたを恋うるように。 それなのに逢えぬまま、こうして独りで今夜も休む事になるのだろうか。 長々しい夜は明けなくて、孤独は堪えがたいほど。 古く、山鳥というものは、昼は雌雄ともに暮らしながら夜になれば谷を隔てて別々に眠る、と信じられていました。 ですから「山鳥」という言葉は離れ離れの二人が慕いあいつつも逢えないでいる一人寝の孤独、という連想の言葉なのですね。 山鳥の尾の長いのは雄の方です。ですからこの歌を歌は一人寝の男性の悲哀という事になります。 この山鳥、本当に尾が長いのですよ。雉科の鳥ですが、大体そうですね、自分の体の倍ほどはある長い尾をしています。 その長い尾をしだらせて止まり木などに止まっている姿は、それは優雅なものですよ。 この歌の初句から「しだり尾の」まで、上の句全体が次の「ながながし」を引き出すための序詞になっています。 ただ、「長い」と言うためだけの言葉なのですね。 けれどもこの序詞の美しい事。 「の」の繰り返しの調べの美しさもさることながら、尾の長さがそのまま時間の長さに移行する言葉づかいの巧みさ、山鳥の習性を人の身の恋の感傷につなげる見事さ。 それらが決して技巧的過ぎない易しい言葉づかいで歌われているのは本当に見事というより他はありません。 百人一首を編んだのは定家ですが、定家程の人がこの歌が詠み人知らずであったのを知らないわけがありません。 おそらく知っていてなお、人麻呂の作として知られること歌を採りたい、と思わせたのはこの言わば定家好みの調べのなだらかさ、ではないかと思うのです。 私はどうも定家、という人は言葉足らずであっても、意を尽くしていなくても、調べが美しい歌、というのに惹かれた人に思えてならないのですよ。 それは決して貶しているのではなく、いかにも王朝の歌人らしい好みだな、と思う、ただそれだけなのですが。 だいぶ話がそれてしまいました。 人麻呂、という人は謎に包まれた人です。 わかっていることと言えば白鳳時代に宮廷歌人とて名をあげ、万葉集に秀作を多く採られた歌人、というくらいの物です。 素晴らしい歌人は他にもたくさんいますが、この人麻呂だけが「歌聖」と呼ばれますね。 大伴家持、山上憶良、山部赤人。彼らも万葉集を代表する歌人です。 しかし歌聖、とは呼ばれません。けれど『古今集』の序に貫之は 「柿本人麻呂なむ歌の聖なりける」 と記しています。 歌の聖、すなわち歌人達の守り神、と言ってもいいでしょう。 時代下がって人麻呂が没して何百年も経った頃、粟田讃岐守兼房という人がいました。 この人はどうにかして良い歌を詠みたい、と常日頃願っては心の中で人麻呂にすがっていました。そしてある晩、夢の中に一人の老人が姿を現したのです。彼こそ人麻呂でした。 早速、兼房はその姿を絵師に描かせ拝んだ所、歌が上手に作れるようになった、というのです。 それを聞いた六条顕季が絵の写しをつくり、供え物をしつつ絵の前で歌合せを行った、これが「人麻呂影供」の起原であると『古今著聞集』にありました。 なんとも人麻呂らしい話ではありませんか。人麻呂には親しみ易さと神秘的な妖しさが同居しているように私には思われます。 秋、と言うのはただそれだけで何故にこれほど物狂わしい寂しさを覚えるのでしょう。 どことなく心細く、人恋しい。 そういった気にさせられる事が誰しもあるのではないでしょうか。 そんな秋の夜に一人休むのはどんなに寂しいことでしょう。 歌の主旨とは違いますが、篠原のいない夜、と言うのが稀にあるのですね。 ふと耳を澄ませば虫の声が聞こえる月のさやけき夜、家の中がしんとしているのは居たたまれない思いがするのですよ。 彼がいても特別なにを話すわけではないのです。むしろ黙ったままでもいいのです。 時間を言葉で埋める必要のない理解者、友人を持てたことが私の人生の中で一番の慰めだと、そんな一人の夜には痛切に思うのです。 秋の晩は狂わしくて少し、苦手です。 |