百人一首いろいろ

水野琥珀



 月の美しい季節になりました。月を歌った詩歌や和歌は古今を問わず数知れません。
 夏の湿気にどんよりと曇った空が一転、秋になれば冴え冴えと澄み渡り月も輝く。
 その明るい月に人は何かを思わずにはいられないのかもしれません。
 温かみを欠いた月の光の下、わが手を見れば生者の物とも思われず、そうして人は物思いをするのでしょうか。



 なげけとて 月やはものを 思はする
 かこち顔なる わが涙かな



 西行法師はこう歌いました。「千載集」恋に
「月前恋といへる心をよめる 円位法師」
 として、収められています。
 円位法師、と言うのは西行法師の以前の法名になります。
 最前、私は明るい月に何かを思わずにはいられない、そう書きました。
 西行法師はこう歌います。



 嘆け、と言うのか、月が。物思いをしろ、と。そして泣け、と。
 そんな事はあるまい。
 嘆けと誘うのか、涙を誘わせるのは月か。
 そうではあるまい。
 月はそこにあってただ、美しく、無心に明るく照るだけ。
 己の哀しみに、涙に理由が欲しいのだろうか。
 月のせいなのだ、この涙は。
 決して他の何者のせいではなく、ただ月の。
 いや、そうではない、そうではないのだ。
 月にかこつけて恨みがましく涙しているのだ。
 かなわぬ恋のその嘆きゆえ。



 月前の恋、と言う題詠の歌ですが、「月が嘆けと言う」といった表現や、どことなく「涙」と言うものを遠くに見た表現が返って、透明な哀しさ、とでも言うべきものを醸し出している気がします。
 月のせいではない、月はただ照るだけ、そう言いつつ泣くこの歌はそれだからこそ、「月ゆえの嘆き」が強調されてもいるようで、秋の物思いには相応しいのではないでしょうか。
 月が人に物思いをさせる、と言うのは和歌の伝統的な作法のひとつですが、平安時代の初め頃から月を見るのは忌むべき事、という考え方も一面にはありました。
 おそらくは白楽天の影響でしょう。「白氏文集」に月の明るさに晒されることを忌む詩があります。
 白楽天こそは平安時代に最も好まれた詩人の一人、と言っていいでしょうから、その影響力、と言うのは見逃せに出来ませんね。
 余談ですが、かの竹取物語も白楽天の影響を強く受けていると思います。
 ついでですから、漢詩の月、というものを少しお話しましょう。
 漢詩にも月は多く歌われています。気のせいか、やはり物思いの詩が多いようですね。
 十一世紀の初め、「和漢朗詠集」という本が編まれました。その名の通り、和歌と漢詩の句を並べ、朗詠のための教本ともするべきものでした。
 引用したり朗詠したりするのに漢詩全部は長いのでしょうか、二句だけを少しばかり、と言うことを好んだようです。
 収められている白楽天の二句に
 「三五夜中 新月の色 二千里外 故人の心」
 があります。
 中央の宮廷で官吏を務める白楽天が左遷されて都から遠く離れていった親友を月を見ては案じている、という詩なのですが、その調べのよさから古来この二句が特に愛唱されてもいますね。
 そしてこの二句は源氏物語にも出てきます。都落ちして須磨に隠棲した光源氏が月を眺めては殿上の遊びのことなど思い出し、「二千里外 故人の心」と口ずさんでは涙する、というあの部分です。
 やはり漢詩においても月は物思わせするものなのでしょう。

 西行法師に話を戻しましょう。
 この歌は西行法師の歌の中で、取り立てて秀歌、と言う訳ではない、といった評価があることと思います。
 ですが私はなにとなしに好きなのですよ。
 なんと言ったらいいのでしょうか、なぜか妙に共感できる、とでも言ったらいいのか――上手く表現できないのがもどかしいのですが。
 西行法師が何故、出家したのかは定かではありません。出家の身ではありますが、月を愛し花を愛で、旅に明け暮れては生きる事を謳歌し歌わずにはいられなかった、天性の歌人です。
 自身、歌人でかつ優れた批評家でもあった後鳥羽院は彼の事を「生まれながらの歌人で手本にするべき歌にはならない」と言っています。
 貶しめているのではないのです、むしろ絶賛していると言ってよいでしょう。
 あまりにも素晴らしい天性の物だからこそ、他人が手本に出来るものではない、手本にしてもそれは稚拙な真似でしかない、と。
 あまり高からぬ評価のこの歌にしても月や涙を擬人化し、離れたところから見たために浮かぶ感情の美しさや、「かこち顔なる」という語は西行法師以前には見ることの出来ない語でもあること、やはり西行法師ならではの歌でしょう。
 月を愛した西行法師だからこそ、月のせいだ、と歌えた、そんな気がします。

 私も月は好きなのですよ。
 たいていの人は冷たい、と言う月の光が何故だかふんわりと温かみを帯びてさえ見えるような気がする夜もあります。
 月を愛するゆえでしょうか。
 冴えた光の中で目にする庭の木々は陽の光の下では決して見せない表情をします。
 冷たく淫靡で容易に人を寄せ付けない、そんな顔でしょうか。
 そんな木々の下、ほのかな温みを持つ月光に照らされている人影、というのも美しいものですね。
 青白い、温みなどないかに見えて、しかし暖かくも見える光がさわさわと鳴る音が聞こえるのですよ、この耳に。
 人影が戯れに折り取った咲き初めの白菊さえ、青みを与えられ、幼い白さがふと妖艶に。
 月光を浴びた人影は、まるでこの世の者ではないような、気さえします。あまりにも美々しすぎて。
 冷たくて豪奢で麗しい。
 月そのものより月光が、月光よりもその光を浴びたものの方が、私にはより好ましいのかもしれません。




モドル