百人一首いろいろ

水野琥珀



 秋も深くなってきました。風が時々冷たく澄んで、うっかりするともう冬までもがそこにきているような、そんな気がします。
 美味しい物や、夜長の読書、秋といえば色々ありますが、やはり紅葉、でしょう。
 こんな歌を思い出しますね。



 このたびは 幣もとりあえず 手向山
 紅葉の錦 神のまにまに



 鮮烈な、これ以上ないというほどの「秋」が思い浮かびはしないでしょうか。
 高い青空に色鮮やかなもみじば。降り注ぐ光と色。
 なんとも美しい情景です。
 詠み人は百人一首には菅家、と記されています。これは菅原道真の尊称です。
 古今集には「朱雀院の奈良におはしましたりける時にたむけ山にてよみける」との詞書があります。
 ですから道真この時、権大納言であり右大将でもあります。
 権力の階段を正に上り詰めようとする、言ってみれば道真絶頂の時代です。
 この歌は朱雀院、と呼ばれた宇多上皇が吉野にお出かけになられた、世に言う宮滝御幸のお供をした時のものです。



 なんと美しいのか。鮮やかな紅葉、空の青。
 まるで今日この日に御幸がある、と山が知っていたようではないか。
 風に吹かれて散る紅葉。
 ああこれではとても捧げられない。
 持参の幣などこの美しさの中ではなんとみすぼらしく見えることか。
 これは錦。
 山々が織り成した美々しい錦だ。
 この度の旅はこれを捧げましょう。
 神よ、どうぞお心のままにこの錦の幣をお納めください。



 道真はそう、歌ったのではないか、と思います。
 と言うのもこの歌の解釈には二通りがあるのですね。
 私は「とりあえず」を「捧げる事など出来ない」と解釈しますが、一方では「旅が急だったので用意が出来なかった」と解釈することもできます。
 私としては紅葉の美しさに持参の幣が捧げられない、それほど美しい、としたほうが好きですね。
 完全に好みの問題です。
 ところで幣、という言葉が出てきました。
 幣、と言って思い出すのは一般に神主の持つあの白い紙のものでしょう。
 けれどこの時代に幣、と言えばそれは小さく切った取り取りの色絹のことになります。
 これを幣袋、と言うものに入れて旅に持っていったのですね。
 持っていってどうするのか、と言えば峠や道々の道祖神などの前でまいて捧げるのです。そうして旅の無事を祈ったのです。
 ですのでこの歌の幣もそう言った色取り取りの絹を道真か、一行の誰かが持参していた事でしょう。
 それよりも美しい、という紅葉を見たのでしょうね。
 羨ましい、と思います。
 道真はまく事など出来ない、と歌いましたが、こんな想像をするのですよ。
 黄色い楓、鮮やかに赤い漆、紫めいた甘蔓、赤や黄色に染め分けられた桂の木。
 山が作った錦の前で、道真は幣をまいたのではないだろうか、と。
 紅葉の山が切り取ったように見える青空に色絹がまかれる。
 舞い上がり舞い散る絹の幣。その向こうに錦の山。
 御幸の供の美々しく着飾ったその袖に、散り掛かるのは、紅葉か幣か。
 そんな、想像をしてしまうのですよ。
 まったく、この世の物とは思われない情景だったのはないでしょうか。

 そもそもが紅葉と言うものは現実を放り投げてしまった美しさを持っているような気がしますね。
 ほんの一月、いや一週間、あるいは一晩で。
 がらりと姿を変えてしまうのですもの。
 たった一月前にはまだ風が暑い、とぼやいていたはずが。
 まだあの頃は青々と、鬱陶しいほどに茂っていた葉が。
 あっと言う間に色を変え、目を楽しませた、というほどもなく散っていく。
 華やかな寂しさ、ですね。
 
 もうだいぶ前になります。
 以前、篠原と奥入瀬に旅したことがありました。
 あの時のことをなんと表現したらいいのでしょう。
 陳腐な言葉しか浮かびませんが、本当に夢のような景色でした。
 色鮮やかに染まった木々。舞い散る葉が奥入瀬の渓流に泳ぐのですよ。
 流れる、と言うよりはむしろ赤や黄色のその葉が遊ぶように泳いでいる。
 遊び疲れて淀に溜まってはそこに小さな錦を作るのです。
 忘れろ、と言う方が難しい景色でした。
 あの時、たまたま私の手の中に散ってきた紅葉を、今も大切にしています。
 そう言うと篠原は笑うのですよ。
「大切にって、栞にしているだけじゃないか」
 と。
 私としては充分大切にしているつもりなのですけれどね。
 大好きな本の間にはさんでは時折、手にとって眺めるのですよ。
 乾いた紅葉を壊さないようにそっと手にとる。
 なんだか宝物を扱っているようで、その時間さえも楽しいのです。
「邪険に挟んでるだけにしか見えない」
 そうやってやっぱり篠原は笑うのですが。
 ですが、知っているのですよ、私は。
 篠原、という人は何かにつけて誤解される事の多い人で、始末の悪いことに自身でその誤解を解こう、という気もない人です。
 人嫌いで編集者が自宅にやってくることさえ厭うのを
「事実だ」
 の一言で片付けてしまう。
 もう少しばかり取り繕ってもいいでしょうにそれをしないものですから「気難しい変人」と敬して遠ざけられるのですね。
 それをちっとも苦にしていないのですからやはり「気難しい変人」は事実かもしれませんが。
 こんなことを書くと叱られそうですが、知っているのですよ、私は。
 篠原が悪態をつく紅葉の葉は、刊行された彼の著書に挟んであります。
 奥入瀬の秋、の項に。




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