百人一首いろいろ水野琥珀この秋にめずらしく一人旅をしました。 篠原の旅に同行することは多々あれど、一人で旅をするのは本当に珍しく中々に新鮮な経験でもありました。 その旅先の紅葉の美しさにふと思い出した歌がありました。 小倉山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆき待たなむ 詞書がないとわかりにくい歌ですね。 「拾遺集」巻十七の詞書を含めて訳してみましょう。 ある日、宇多上皇が大堰川に御幸されたときのこと。 上天にきらきらと光る光がそれは見事な紅葉に揺らめいては透き通る。 小倉山の全山が燃えるように赤く染まっては光を透かす。 「あぁなんと美しい事か。このように美々しく風雅な景色を帝にもぜひお見せしたい」 上皇は溜息つきつつ赤に見惚れます。 御子の帝もまた雅を喜ばれる方、きっとお喜びになるに違いない、と。 「この場所にはぜひ行幸があってしかるべき。帝にお見せしたい……」 そう仰る上皇の言葉を藤原忠平が受けました。 「まことさように。主上に奏上いたしましょう」 申し上げてかのように詠むのです。 小倉山の紅葉よ、もしもお前に人の心があるならば今しばし待て。 もう一度行幸があるまで待ってくれ。 その美しい葉を風に散らさずいておくれ。 きっと帝がご覧になろうから。 百人一首で詠み人の名は貞信公、となっています。これは藤原忠平のおくり名です。 忠平は小一条太政大臣、とも呼ばれた人物で藤原一族全盛を築き上げた権勢家として知られています。 宇多上皇が「ぜひお見せしたい」と願った帝は醍醐天皇ですね。 父子共に風雅を解される方でした。 小倉山は今なお紅葉の名所として知られていますね。 私も見に行った事がありますが本当に美しいものです。 この歌は紅葉の美しさには一切触れていません。 触れずに「行幸がある晴れがましき日を待て」と紅葉を擬人化して語りかける事で一層、想像力をかきたて膨らませているように思います。 小倉山、といえば当時でも紅葉の名所です。 嵯峨野の郊外は平安時代の初め頃から貴族たちにとって楽しい行楽の地だったのですね。 目の前には大堰川、その向こうには嵐山。振り返れば目に映る小倉山の紅葉。 歌は語りませんが、平安貴族にはその嵯峨野の美しさはすっと浮かんだ事でしょう。 上皇が御子にも見せたい、と願ったほどの紅葉。 貴族たちはこぞってその美々しさを空想したに違いありません。 そして小倉山、といえばもうひとつ。 この百人一首を編んだ定家の山荘がここにはありました。 ここで編まれたから「小倉百人一首」とも言うのですね。 篠原と私が住む家にはもうひとり住人がいます。いえ、いました、と言ったほうが正確ですが。 幼い篠原の甥が一緒に住んでいたのです。 大層、可愛らしい子で私も可愛がっていたのですが、先ごろ親元に戻ってしまって少しばかり寂しくもあるところです。 篠原と同行しない旅行と言うのは久しぶりでした。 気難しい篠原のこと、旅先で気に入らない事があればそれだけでその旅行をだめにしてしまいかねないので、普段は私が同行して身の回りの事をするとそれだけなのですが。 今回は同行しなくても良い、との事だったので私も 「では少し羽を伸ばしに」 とばかりに旅に出ました。 のんびりと一人歩きを楽しみ、紅葉狩りをして帰ろう、と思っていたのですがすっかり予定が狂ってしまったのは何故でしょう。 これは篠原に原因があるに違いありません。 とにかく手のかかる男の世話ばかりしているものですから今頃、茶が不味いの食事が口に合わないの、果ては風呂が熱いのぬるいのと文句を言ってやしないかともう気にかかって気にかかって仕方なく。 そうは言いましてもおいそれと連絡が取れるわけでもないので気にかけるまい、とはしたのですけれどね。 これはきっと私の性分なのでしょう。 誰かの世話をなにくれとなく焼いているのが性に合っているのです。 そうして篠原のことを考えまい、としたならば今度は篠原の甥の事を思い出したのですから。 今は親元にあって何不自由なく暮らしているはずの彼ですが、帰る時には「戻りたくない」と泣いたものです。 それほど親しんでくれたか、と嬉しかったのです、私は。 ですから今はどうしているだろう、なにをしているだろう、旅の空でそればかりを考えていました。 彼が親元に帰って寂しく悲しいのは私のほうだったかもしれません。 旅先の、名も知らぬ山々の紅葉の美しさに心打たれては 「あぁあの子に見せたい」 そう、思ったのですよ。 親子ではない私たちでさえそのように思ったのです。 宇多上皇のお心はいかばかりであったか。 紅葉の美しさそれよりもなお、御子に見せたいと願う上皇のお心の美しさが私は胸を打つように思われる一首です。 |