百人一首いろいろ

水野琥珀



 この世の中には憂い事ばかりが沢山で、時にはなにもかもを捨てて隠遁したい、と思うこともあります。
 その思いは源氏物語の古来からあったのだと思いはしますが、このように洒脱な歌を詠んでのけた人物もいます。
 今回はそんな人の話をいたしましょう。



 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ
 世をうぢ山と 人はいふなり



 喜撰法師、と言います。話をしましょう、とは言いましたが、この人物、残っている歌は一首のみ、生没年からどこの誰かさえもわからない、という非常に困った人物です。
 それなのになぜか六歌仙の一人、と数えられているのも面白いものですね。
 大体、九世紀後半の人ではないか、と言われています。他には宇治山の僧であったらしい、と言うことだけがわかっているそうです。
 歌の訳に参りましょう。



 私の庵かね、そりゃ都のたつみ、そう東南さね。東南にあると言えば宇治山じゃないか。
 わが住処は宇治山さ。こんな風に住んでいるのさ。庵の側には鹿も住むのさ。
 それを誰だい、「世の中を憂いてあんな所に引きこもってるんだ」なんて言うのは。
 私はこの澄んだ地に心楽しく住んでいるんだがね。



 口調の楽しい、覚えやすい歌のひとつですね。
 それでありながら練れた技巧は正に古今調、と言えます。軽やかな口振りもまた古今調の特徴のひとつですね。
 「しかぞすむ」は、鹿が住む、このように住む、このように澄む、三重の意味が読み取れます。
 「たつみ」から宇治山を、そして憂いを引き出していますね。
 また、「わが庵……すむ」「世を……なり」の対比から、人は人、己は己、との確立した自己が感じられるような気がします。
 それがこの一種突き抜けた軽さを生んだのでしょうか。
 鹿を花を風を友に喜撰法師は生きたのでしょうか。
 喜撰法師が住んだゆえ、宇治山を喜撰が嶽とも呼びました。

 正体不明の喜撰法師ですからここは長唄の話でもいたしましょう。
 長唄に「喜撰」という曲があります。
 喜撰法師が祇園の桜の下、茶汲み女を相手に面白おかしく踊っている所にお迎えの坊主が来ます。が、しかしこのお迎えも一緒になって踊ってしまうのですね。
 平安時代の歌人を遊里に引きずり込んで洒落のめしてしまおう、という江戸時代に生きた人々の教養ある「笑い」を感じさせる曲です。
 江戸時代の頽廃的な遊里に平安の歌人、というこの趣向、江戸の大衆には大変に受けたそうですよ。



 喜撰法師のような、とは言いませんが、かつてそんな友がおりました。
 友、と言うのに若干のためらいを今でも覚えるのは実を言えば私の陸軍幼年学校時代の先輩にあたる人なのですよ。
 あの頃の、ましてあの中の人物にしては珍しく人と群れるのが嫌いで、誰かとつるんで下級生をいたぶるなど下卑た事は鼻で笑うような人でした。
 私はと言えば目立たない生徒でいたつもりなのですが、目立たなくてもいびられる時にはいびられるものです。
 それを偶々目撃した彼がやめさせてくれた、と言ったようなことがありましていつしか「友」と言えるような関係になりました。
 彼は先の大戦で大陸に渡ったまま行方がわかりません。
 彼の事ですからきっとあちらで生きているもの、と信じてはいます。いつか会えればよいものだ、と。

 と、喜撰法師の歌を目にするたびに思い出していたのですが、思いもかけないことに連絡がありました。
 ここでは彼の事を喜撰さん、と呼びましょう。
 喜撰さん曰く、私のこの文章を目にして幼年学校時代の後輩を思い出した、とのこと。それでもしやと出版社に問い合わせてくれたのですね。
 私の驚いた事と言ったらこのつたない文章で表しようなどありはしません。
 喜撰さんは生きている、と思ってはいましたが、なんと日本に帰って来ているというのですから。
 当時の大陸の事情を考えれば生きて戻れたことだけでも有難く、この世にあまねくすべての物に感謝してもしすぎるということを知りません。
 その喜撰さん、現在は宇治山あたりに住んでいる、とのこと。
 まったく偶然の一致とは言え大笑いです。
 数度の文通を経て、こちらに出てくる用事もあるから、と久しぶりに喜撰さんと会うことにしました。
 せっかくですから篠原にも引き合わせたい、と我が家にご招待です。
 もちろん人嫌いの家主殿はしぶしぶの承諾でしたが。
 私としたらうっかりした事に喜撰さんは喜撰さんで、見下すのではないもののどこか人の世を斜め上から見ているようなところがあり、篠原は篠原でああいった性格です。
 はたして会見が上手く行くのか、と危ぶんだのはうかつな事に当日でした。
 結果としては上々です。
 とは言え、見物でしたよ。
 なにせ喜撰さんと篠原はほぼ二時間に渡ってお互いを警戒しあっていましたから。
 きっとそう言えば二人とも「そんなことはない」と否定するのでしょうけれどね。
 まったく冷や汗のかき通しでした。ぬるくもない茶をいったい何度淹れなおした事か。
 ようやくぽつりぽつりと会話が成立し始めた頃、生憎にも喜撰さんはかねてからの用事にて席を立たざるを得なくなってしまったのは残念な事でした。
 今度は用事など作らずに来よう、と言った喜撰さんの言葉に篠原が珍しく笑って見せたのは私も驚きましたが。
 喜撰さんが帰った後、
「西のほうにも友が出来たな」
 どこを見るでもなく篠原が言ったのは、いつだったかの私との会話の中で「西のほうに友はいない」と言ったのを覚えていたせいでしょうか。
 喜撰さんに会えたことよりもなお、篠原に新しい友が出来た事を私はいま喜んでいます。




モドル