百人一首いろいろ

水野琥珀



 春の盛りというものは恋心までも昂揚させるものでしょうか。
 咲く花の淡い香りに初恋の甘さを、宵の風に狂おしい情熱を思うのです。
 そのせいでしょう、こんな歌を思い出しました。



 わすれじの 行末までは かたければ
 今日をかぎりの 命ともがな



 儀同三司母とも呼ばれた高階成忠の娘・貴子の歌ですね。
 なんと激しい恋心でしょうか。男の思いを艶に訴える王朝の女、と言うよりもむしろ活発な現代の職業婦人のようではありませんか。
 あでやかで情感豊かに溌剌とした、そんな女性像が浮かぶようです。
 「新古今集」巻十三に収められているこの歌の詞書には「中関白かよひそめ侍りけるころ」とあります。中関白とは藤原道隆、後に貴子との間に伊周、隆家、定子などをもうけることになる人物です。
 この歌はその道隆が貴子のもとに通い始めた頃の歌、と言うことです。
 当時は言うまでもなく一夫多妻の通い婚ですね。女はいつ訪れるかわからない男のことをただじっと家で待つしかなかった時代です。
 それはどんなに切なく苦しい事だったでしょうか。
 この歌はその恋の絶頂期、つまり恋が叶った直後の事になります。貴子はもちろんこの後に来るのが一人寂しく待つだけの毎日であることを知っているのですね。
 その時代と思いをあわせて考える時、この歌の興趣は尽きせぬものとなります。



 忘れないって仰ったわ。あなた、私のことはきっと忘れたりしないって、仰ったもの。
 でも、どうかしら。先のことなんてわからないもの。あなたの仰った言葉が嘘だと思っているわけではないのよ。でもただ、行く先の事などわからないのだもの。
 だから、あなたがそう仰ったその言葉だけを抱いて私はこの恋の絶頂に死んでしまいたい。
 そんな風に思うの。



 貴子は父の姓をとり高内侍と呼ばれて宮中にも仕えました。父は学者であったせいか、大変な才女でもあり、また子供が皆、美貌を謳われていることから彼女自身、美しい人だったのかもしれません。
 その彼女に心動かされたのが藤原道隆。まだ若い青年武官でありました。彼の父親は兼家、当時は大納言という高官ですが、まだ政争の最中でもあり若い彼はまだ将来がどうなるのかまったくわからない時代です。
 それでも貴子はこの貴公子を愛したようです。そうでなければあのような歌が詠めるでしょうか。
 そしてついに道隆の父は政敵を倒し位人臣を極め、その父の死後に道隆自身が父の後を襲い関白となります。
 貴子はその夫人として前述の子らを産み、男子は若くして昇進をとげ、定子は一条天皇の中宮に、もう一人の娘・原子は東宮妃として入内を果たします。
 一家にとって、この世の春を謳歌する心地だったでしょう。
 貴子自身、信じられない気持ちだったのではないでしょうか。昔、道隆が言った「忘れない」と言う言葉は真実だったのです。世の常として他にも女はいましたが、貴子に対する尊敬と愛情は常に変わることはありませんでした。
 けれど春は短いもの。
 道隆一家はあれよあれよという間に没落していきます。元はと言えば道隆が早くに亡くなったことに端を発するのですが、まだ若い息子は父の弟である大政治家道長の敵ではなく、官位を剥奪されて配流の身。また定子も悲しみのあまり髪を降ろす、という出来事が続きます。
 道隆の死後、尼になっていた貴子の泣きくれる間もないほどの、これが結末でした。



 世の人は「賢すぎる女の末路などあんなもの」と笑ったそうですが、はたして貴子は不幸せだったのでしょうか。
 私はそうは思いません。
 貴子はこれ以上ないほどの恋をしました。得たい、と思ってもそう得られるものではない、激しい恋をし、それを愛に育み暮らしたのです。
 それが短かった、と言って不幸、と決め付けられるでしょうか。
 たとえ短くとも貴子は幸福だった、と思うのですよ。少なくとも、私は。
 世の人の評価などこれほど当てにならないものもないでしょう。恋と言うのはそう言うものです。
 昔人の恋の逸話には様々なものがありますね。
 貴子のように短く終わった絶頂や、またあるいはこの世の誰もが反対する身分違いやなにかの恋。
 それが必ずしも不幸、だとは限らないでしょう。案外、不幸だ薄幸だ、と思っているのは他人だけかも知れない、そんな風に思うのですよ。
 そう思うと同時に貴子の歌う「今日をかぎりの命ともがな」と言う気持ちが私には痛いほど良くわかるのです。
 明日はどうなるかわからない、そんな不安の中かなえた恋。愛を誓う男の言葉を聞いたその瞬間に命絶えてしまえばよい。
 その胸が痛くなるような激情が、なぜか身近なものとして理解できます。
 かなった瞬間こそ、恋の最高潮ではないでしょうか。
 ある人はそこから徐々に下降線を描くように熱を冷まして行き、またある人は恋の最高潮を愛情の開始点に持って来られる、と言った具合に変化はあるでしょうけれど、それが絶頂だ、ということに違いはないでしょう。
 その瞬間に死ねたら。
 一度たりともそれを夢想しなかった、とは私には言う事ができません。
 とは言え、そういった思いは誰しもが持つものなのでしょうか。丁度、篠原が暇そうにお茶を飲んでいましたので訊いてみることにしました。
 そうしたら
「あまりにも馬鹿馬鹿しい」
 の一言で片付けようとするではないですか。少々むっとしたが顔に出たものか、少しばかり言葉を継ぐことにしたようです。篠原曰く、
「恋がかなったその瞬間に死なれたらたまらない。まして死のうなど思いもしない。これから先、二人ですごす時間がどれほどの幸福に満ち満ちているか、味わいもしないでそんなにもったいない事をさせて、してたまるものか」
 だそうで、そう聞くとあるいはそれも一理ある、など思ってしまいますね。
 篠原と言う男、意外と前向きなのです。その熱の入った語り口に思わず微笑がもれたところ
「自分との恋ゆえに死にたい、と思うならその恋ゆえに生きて、共に生きて欲しい。私ならばそう思うがね」
 ぴしりと鞭打つように言われてしまいました。別段「私が」死にたい、と言っているわけでもあるまいし、なにとなく理不尽な気がしないでもない、と。
 ですが篠原に対しての質問、としてはいささか酷であったことは認める必要がありそうです。なぜって私にこのようなことを問われても彼には答えようがないですものね。




モドル