百人一首いろいろ

水野琥珀



 今回は、不思議とこんな歌の気分です。なぜに、と理由のない選択ですが、こういうことも良いでしょう。
 あるいはこの歌のように自分の心さえ持て余す理不尽、と言うものに身を浸してみたいのかもしれません。



 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
 人のいのちの 惜しくもあるかな



 詠み手は右近、と言います。恋多き女性でした。彼女は藤原季縄という人の娘で、父が右近の少将だったので、右近、と呼ばれて醍醐天皇の皇后・穏子に仕えました。
 女房の常として本名も生没年も分っていません。およそ十世紀前半の人で、村上朝の歌壇で活躍した、という事がいま分る右近のすべてです。
 右近の話はまず後回しにして歌の訳に参りましょう。



 いつかは忘れられる私だなんて、まるで考えてもみなかったわ。後の世までも共に、そう約束したはずの私とあなた。こんな日が来るなんて想像もしなかったのだもの。
 だから誓ったの。心変わりなどありはしないって、神も仏も御覧くださいって。あなたも誓ったわよね。私を決して忘れはしない、お前がすべてだって、天地神明に誓う、そう言ったわ。確かに言ったわ。
 それなのにあなたは私を捨てるのね。いいわ、それなら。きっとあなたには神仏の罰があたるんだもの。私を裏切ったあなた、いい気味だわ。本当にいい気味。
 いいえ、違う。罰があたってあなたが死ぬなんていや。あなたにもしもの事があったらどうしよう。
 でも。あなたが憎くない、とは言えない。誰か、私じゃない誰かと幸せになったらいい、そんな事はとても思えないの。



 どうです。女心とはかくや、そんな歌だと思いませんか。私がこの歌を贈られたのだったらどうしただろう、つい考え込んでしまうような、歌でもあります。
 「大和物語」の八十一段から八十五段に渡って右近のことが書かれています。それによれば右近は「権中納言某」と恋をした、ということ。
 この権中納言某、という男はどうやら時の権力者であった藤原時平の三男、敦忠であったようです。敦忠というのは先にご紹介した歌
  あひみての のちの心に くらぶれば
  昔はものを 思はざりけり
 の作者ですね。この男は権力者の御曹司であるというだけではなく、歌に優れ音楽の才能にも恵まれた正に貴公子、だったそうです。
 あいみて――の歌が右近に贈られたものかどうかはわかっていませんが、右近のこの歌は敦忠に贈られたものであるようです。
 「大和物語」八十四段にはこうあります。「同じ女、男の忘れじとよろづのことをかけて誓ひけれど忘れにけるのちに言ひやりける」と。
 「大和物語」の中ではこのことがわずかに皮肉な調子で語られていますから、さぞ敦忠は色々なものにかけて誓ったのでしょうね。恋、とはそういう熱さを持ったものだと思いますが、他人の事だからでしょうか、苦笑が洩れるのを抑えられない小話です。
 この歌には二種類の解釈があります。どこで言葉を切るか、ということなのですが、それによって意味がまるきりと言って良いほど変わってしまう面白さがあります。
 「忘らるる身をば思はず」で切ると、「忘れられる私自身の事などかまいはしない。ただああやって神仏に誓ったあなたが罰を受ける、そのことばかりが心配だ」と言った意味になりますね。この解釈は男性には不動の人気、と言って良く昔からこう読むのが主流になっています。
 もうひとつの解釈としては「忘らるる身をば思はず誓ひてし」までで一区切り、とするものがあります。
 私はこちらによって訳をしましたが、どうでしょうか。こちらの方が本音、という風に聞こえる気がするのです。
 自分を裏切った恋人など罰を受けるがいい、でもやっぱり死んでしまうのはいや。
 そう思うのが人の情、というものではと思うのですよ。
 そもそも「惜し」という言葉にしてから二重の意味を含みます。まずは言葉通りに「惜しい・忍びない」という意味、もうひとつが「惜しいことだが、でも」と若干皮肉の入った解釈。
 自分を裏切った恋の相手に贈る歌、としてはこの揺らめきこそが相応しい、私はそう思うのですよ。
 許せない、でも。そう思えば思うだけ、右近がどれほど敦忠を深く思っていたのかが伺えるもの、と思います。
 右近は恋多き女性だった、と言いました。この敦忠のほかにも幾たりかの男と恋をしました。それもみな上流の、言ってみれば一介の女房ごときを相手にするはずもない男たちと恋をしました。
 それだけ右近、という女は素晴らしい人だったのでしょう。美貌がどうの、というものではなく、この歌を詠むことができる心を持った女であった、それだけで充分以上に恋の遍歴を重ねるに相応しい女であった、私はそう思うのです。



 随分偉そうなことを言ってしまいましたが、私自身、想像してみましたが、どうにも裏切った事もなければ裏切られた事もないので確かにこうだ、と言い切れる自信がないのですよ。
 改めて恋人に裏切られる自分、また心変わりする自分、というものを想像してはみましたが、どうもいけませんね。まったく想像できないのですよ。想像力に欠けている自分が恥ずかしくなるほどです。
 この際ですから、自分の限界というものを見極めて人に聞いてみることにいたしましょう。
 幸い篠原が原稿用紙を前に暇そうに猫の腹など撫でているではありませんか。
「篠原さん、恋人に裏切られたとき、人は相手に『罰があたって死んでしまえ』と思うものだろうか、それとも『罰があたるなど、そんなことは』と思うものだろうか」
 この歌の事をいま書いているのだ、という前提でこう尋ねますと、篠原はしばし考えた挙句
「とりあえず茶」
 など、寝ぼけたことを言ってきます。まったく呆れたものですが、いきなり聞く私も私ですのでまずはおとなしく茶を淹れ直し、さて、とばかりに文机の前に正座してやりました。
 聞くまでは梃子でも動かぬ姿勢、と見て取ったのでしょう。いささか嫌な顔をして茶を飲み
「裏切られる、か。ありえない。よって、わからん」
 仏頂面でまだ熱いはずの茶を猫舌の篠原は飲み、進みもしない原稿に向かうべく、紙の上に陣取った猫を手で追い遣っているではないですか。
 どうやら私は聞くべき事ではない事を尋ねたようです。篠原ならばあるいは、と思ったのですが、どうも彼にも想像力の限界、というものは、あるようですね。




モドル