百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回に続いて今回もまた恋の歌を。
 恋し始めたばかりのとき、成就した後、共にいる時間が長くなったとき、人はそれぞれ別のことを考えるものですね。
 初めのころは思っても見なかったことを考えている。それは自分の中に別の考えが生まれる瞬間に立ち会う、という稀有な体験かもしれません。



 君がため 惜しからざりし 命さへ
 長くもがなと 思ひけるかな



 こう歌ったのは藤原義孝。謙徳公とも呼ばれた藤原伊尹の三男として生まれました。父は摂政でありまた美貌の人としても歌人としても名を知られた人物です。
 義孝はその父親に似たのでしょう。歌才に、美しい容貌に恵まれました。
 父・伊尹は「大鏡」に「世の中は我が御心にかなはぬことなく」と語られていますから大変な権勢だったのでしょう。
 その三男ですからなに不自由なく育ったおおらかな人柄だったのではないでしょうか。
 冒頭の歌は切ない恋の歌でありながら言ってみれば貴族的な大げささ、と言いますか伸びやかな歌だと思います。
 ですが義孝は若干二十一歳にして亡くなります。それを知るとこの歌から受ける感覚も変わってくるのではないでしょうか。



 あなたのためなら命など惜しくはない、そう思っていた。
 この恋が叶うのならばいっそ死んでもかまわない、ずっとそう思っていたのに。
 それなのにどうだろう、私の気持ちはこんなにも変わってしまった。
 私はあなたを知った。
 あなたの肌の温もり、髪の匂い、言葉の色、声の音。あなたの笑う、声。
 恥ずかしそうに顔を伏せて、それでも私を案じてくれるその姿。あなたが寄せてくれる愛情。
 それを私は知ってしまった。
 どうして死ねようか。この恋ゆえに死ぬなど出来るものか。あなたを得たいま、私は生きたい。
 あなたとの恋を温めたい。そして長く生きあなたと共白髪になるまでも。
 ふと、そんな風に気づいた。



 若くして死を見つめざるを得なかった青年。天賦の歌才を持った歌人の、その絶唱がいたたまれないほどの悲しみを持って胸を打ちます。
 「後拾遺集」の詞書に「女のもとより帰りてつかはしける」とありますから後朝の歌なのでしょう。例によってこの歌を贈られた女の名はわかりません。こんなにも深く思った女なのですから正夫人、と思いたい所ですが、真相は闇の中、ですね。
 その北の方には一子がありました。名を行成。後に名筆家、三蹟の一人として名をなしました。
 義孝には兄がありました。どうやら年子であったようですが、この兄弟を指して人は「花を折り給ひし君達」と呼んだそうです。さぞ華麗で美しい男たちだったに違いありませんね。
 しかしそれほどの美貌でありながら義孝に浮ついた所がなかった、と言いますからまた素敵ではないですか。
 あるとき、珍しいことに義孝が女房たちのいる場をふらりと訪れて話をしていきました。そういう場に姿を見せない義孝ですからもちろん女房たちは歓待します。そのうち夜もふけ彼が席を立つと女房たちは「さてこれからどちらに」ともう、気になって仕方ないのです。そこでこっそり人をやって後をつけさせるとこれはしたり。義孝が向かった先は、氏寺でした。それも低く法華経を唱えながら。
 人はそれを聞いて大変に感動した、と言うことです。
 もしかしたら義孝は自分の運命を知っていたのかもしれない、そんな空想をめぐらせたくなります。知っていたからこそ、透明な目を、清冽な人柄を持てたのではないか、と。
 そのようにして人々に愛された義孝ですが、彼が二十一歳の年、世の中に天然痘が流行しました。美貌の兄弟は朝に兄が、夕に弟が、相次いで亡くなります。
 母君の悲しみは、またこの歌を贈られた女の悲しみはいかばかりであったでしょう。
 それを思って歌を鑑賞するとき、やはり私は歌の意味以上に悲しくて仕方ないのですよ。



 私は長生きをするべきではない、そう思っていた時期がありました。そう思わざるを得なかった時期、と言い換えても良いでしょう。
 私は生きていたくなどなかった。さっさとけりをつけてしまいたかった。
 それがどうでしょう、今はこんなにも生きていたいと、少しでも長く生きていたいと、思うようになったのですよ。
 不思議なものですね。ただ一人の人間にあった、ただそれだけでこれほどまでに考えというのは変わるのですね。
「人間などそんなもの」
 篠原が笑います。
 冷たく聞こえる言い方ですが、それは篠原の根性が悪いせいではなく、彼は彼なりにやさしい言い方をしているつもりなのです。
 いかんせん物の言い方というのを知らない人ですから仕方ありません。こういうときには「丸い卵も切りようで四角、物も言いようで角が立つ」と口の中で唱えてやり過ごすのが一番ですね。
「なにをぶつぶつ言っているのだか。誰かと出会って自分の悪い所、好きではないところを変えられたなら、こんな貴重な関係はない。そういう人に出会えた……出会えるのは、貴重だ」
 仏頂面で言いたいだけ言ってしまうとぷいとそっぽを向いて原稿を書き続けるふりをします。そんな篠原に茶でも淹れて差し上げましょう。彼好みのぬるい茶を。




モドル