百人一首いろいろ

水野琥珀



 寝苦しい夜、夢を見た気がするのですが、なにを見たのかさっぱり覚えていなかったのですよ。
 そのせいでしょうか、今回は夢の歌の話をいたしましょう。



 住の江の 岸に寄る波 寄るさへや
 夢の通ひ路 人目よくらむ



 調べの美しい歌ですね。ひたひたとした波音が聞こえそうな、そんな歌ではないでしょうか。
 詠み人は藤原敏行朝臣。清和から醍醐まで五人の天皇に仕えたと言われる三十六歌仙の一人です。
 妻は紀有常の娘なのでかの業平とは相婿になりますね。こうして調べてみると本当に親類縁者ばかりで困ってしまいますよ。
 業平の相婿だから、というわけではないのでしょうが、敏行自身も大変な色好みであったということです。
 この時代、色好みというのはなににつけてもまず和歌が読めなくてはお話になりませんから、とにかく和歌の上手であったのでしょう。色好みと呼ばれることはまず褒め言葉であった時代ですし、そう思えばさほどおかしいことでもないのですが、我々現代の者から見ると何か色好みゆえ、というのは笑ってしまいますね。
 そうそう、敏行は三十六歌仙の一人というだけではなく音に聞こえた能書家でもあります。和歌はすらすらと詠い、書を書かせても天下一品、うらやましいような才能です。
 あるとき、村上天皇が能書家として名高い小野道風をお召しになり、「古今の最高の妙筆は誰か」とご下問になりました。道風は答えて「空海と敏行」と。敏行というのは時代的には後になる、平安時代の三筆に数えられた空海とその時をしてもなお並ぶほどの書家だった、ということです。



 住の江の岸にね、波がひたひたとよるの。寄せては返す波の音、聞こえるかしら。
 その波だってよるのよ。よる見る夢にあなた、来てくださってもいいのじゃなくて。
 昼間、人目を避けるって言うならわかるわ。それなのに夜の夢の中まで来てくださらないって、ひどい。
 夢の中まで人目を避けている、とでもおっしゃるつもりかしら。こんなにあなたにお会いしたい私だというのに。



 会いに来てくれない、というのですからこの歌の主人公は女性ですね。つまり敏行が女性の立場になって詠んだ歌、ということになります。
 この歌は「古今集・巻十二・恋」に収められていますが、その詞書には「寛平の御時の后の宮の歌合の歌」とあります。歌合せですからおそらく事前に題を授かって詠んだものなのでしょう。
 波の寄る音、夜の夢、そういったものが静かに押し寄せてくるようで美しい歌です。まるで描かれてはいない女の流す涙の音が聞こえそうではないですか。
 住の江というのは歌枕で、この場合は「よる」を引き出すためだけの言葉ですが、これがあるとないとでは情感に大きな隔たりがあると思います。たいていの場合、この歌枕では「松」から「待つ」を想像させるのです。ですからここでも詠われてはいない「待つ恋」を背後に忍ばせている、と見るべきでしょう。そして岸辺に寄せる波から夜を、波から塩を、涙を想像させるすばらしい技巧ですが、その技巧の跡が見えないのがまたすばらしいですね。
 「人目よくらむ」の部分の主語を女に、女が人目を避けているのだ、という解釈も成り立ちますが、通ってくるのは男でしかない時代ですからここは素直に女が訪れを待っている、といたしましょう。
 あるいは人目を避けて会ってくれない女を怨ずる男の歌、という解釈も成り立つかもしれませんね。
 私としては女のやわらかい愚痴のような感情が染み出る解釈のほうが好みなのですが。
 解釈などどちらでも良いことですね。ただこの美しい歌を楽しめば良いのだと思います。



 この歌はどうやら題詠のようですから敏行自身がこのときこう感じていたのかはわかりませんが、夢の中くらい、と思ったことはたぶん彼にもあったことでしょう。あったからこそ、女の身になぞらえてこのような美しい歌を詠めたのではないか、そんな想像をします。
 夢の中に愛しい人が出てきてくれたならどんなに嬉しいでしょうか。
 普段、会っていてさえきっと嬉しいものだと、思うのですよ。
 あるいは例えば毎日顔を合わせている恋人の顔を夢の中でも見たい、と思うような関係こそ幸福な関係なのかもしれない、そうも思います。
 仮に旅行などで離れている間、夢の中さえ訪れてくれないとしたら、きっと私は恨んでしまいますよ。ですがそう言えばおそらく「夢を見る気がなかった」私が悪い、と逆になじられそうな気もするのですが。
「夢などという果敢ないものに託してなにが嬉しいのだか、さっぱりわからないね」
 相変わらずの篠原の憎まれ口です。
「だって篠原さん、夢の中まで会えたら、嬉しくないですか」
「現実のほうがずっといい」
「ですからね、そうできない時に、という話なのですよ」
「そうできない場合であるならば実現できるよう最善を尽くす」
「最善を尽くしても会えなかったら、という話ですって」
「最善を尽くして会えない、などということはない」
 やけにきっぱり言っていますが、それはそれでどうかと思いますよ。世の中にはそれでも駄目、なにをやっても駄目、ということがあるのですからね。
 と、思いはしたものの、後になって私は篠原に惚気られたのではないか、と思ったのですよ。
 篠原はもしかしたら、そう、なにをやってでも会いに行く、会いたいと自分が思っていれば相手も必ずそう思っている、だから二人で実現を目指せば必ず会えるのだ、と信ずる恋人がいる、とそう言いたいらしいことに気づきました。
 まったくもって回りくどい言い方ですが、まずそれで間違いがないのでしょう。人嫌いの恥ずかしがり屋にしては、ずいぶんはっきり言ったほうなのですね、きっと。
 それほどまでに相手を信じられる篠原という男、すごいことですね。篠原が思う相手との絆の強さに私までなんだか幸福を分けてもらった、そんな気分です。




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