百人一首いろいろ

水野琥珀



 さて、母娘の歌から離れてまた別の歌をご紹介いたしましょう。
 今回は、そうですね。初々しい恋心などいかがでしょう。
 皆さんにも初恋のご経験はあると思いますが、あのどうしようもない胸のときめきというのはそれからずいぶん時間が経ってさえ、なにか甘酸っぱい思いを抱かせるものですね。



 かくとだに えやはいぶきの さしも草
 さしも知らじな 燃ゆる思ひを



 さあ、いかがでしょう。一読してさっと意味が取りにくい歌ですね。なんと言いましょうか、推敲し尽したはじめての恋文、という感じがいたしませんか。
 実はまったくその通りなのですよ。それは後述するとしまして、まず歌人のご紹介を。
 詠み人は藤原実方朝臣といいます。左大臣であった師尹の孫になります。父・貞時が早くに亡くなったため、叔父である小一条大将済時の養子になりました。
 歌詠みとしての名も高く、そして風雅の道を知る人であったため、大変女性にもてた、といわれています。
 そうそう、あの清少納言とやり取りした歌も残っていますよ。ただ清少納言のほうはあまり乗り気ではなかったようで、ずいぶんつれないことを「枕草子」の中に書いてはいますが。実方の方は、といいますと、彼女との間に行き来した歌をきちんと自分の家集に載せています。なんだか面白いものですね。



 こんなにあなたを思っている、とせめて伝えることが出来るだけでも良いのに。
 あなたに言ってしまえたらいい。いや、言えはしまい。
 とても口に出すことが出来なくて、ただただ胸を焦がすばかり。
 伊吹山のもぐさのようにくすぶっていつまでも消えやしないこの思いを、あなたはご存じないのですね。



 「御拾遺集」に収められている歌で、詞書に「女にはじめてつかはしける」とあります。ですからはじめての恋文、は印象として正解なのですね。
 これ以上はやりようがない、というくらいに技巧を尽くした歌で、この歌ひとつで文法の勉強が出来てしまうほどです。ただ、それがあまり嫌味でないのが実方の持ち味というべきでしょう。
 「いぶき」と「言う」をほのかににじませ、「伊吹」はもぐさの名所ということですから「さしも草」にかかります。さしも草、というのはよもぎの異名でもぐさの原料となりますからここでは、もぐさのことですね。それから「さしも知らじな」が導かれます。「思ひ」には「火」が隠れていますね。「さしも草(もぐさ)」「燃ゆる」「火」これらはすべて縁語です。
 ここまですれば正に天晴れ、と褒むべき見事な技巧です。がんじがらめの割には繊細なので燃えるような思いや、青年の壊れてしまいそうな真情を伝えていて、大変に美しいと思います。
 この実方、情熱的な人に良く見られるように、少しばかりかっとし易い性格であったようです。
 こんな話が伝わっています。
 ある時のこと、貴族たちが花見に興じました。そこににわか雨が降ってきたのですね。これは困った、と人々が騒ぐ中、実方は桜花の下に立ったまま
  桜狩 雨は降りきぬ 同じくは
  濡るとも花の 蔭に宿らむ
と詠んで春の雨にしとどに濡れた、ということがあったのです。それを面白く思った人が主上に、これこれこういうことがございました、と申し上げたんですね。
 たまたまその場には藤原行成がいたのです。三蹟の一人の行成ですね。その話を聞いた彼は
「歌は面白いけれど実方の振る舞いは褒められたものではありませんな」
 など、言います。確かに歌の通りにして装束を濡らす、というのはいささか嫌味ではありますね。
 さあ、それをどこからか耳に挟んだ実方は恨みます。いずれ仕返しをしてやるぞ、と思ってしまったのでしょうね。
 その後に殿上で行成と言い争うことがありました。実方の方は以前の憤りがあるものですから、行成の冠を笏ではっしとばかりに打ち落としてしまったのですよ。当時において冠を落とす、というのは逆手で頬を張る以上の侮辱行為です。
 このとき行成はどうしたでしょうか。行成は慌てず騒がず雑役をする者を呼び寄せて、庭に落ちた冠を拾わせかぶりなおし、守り刀から笄を抜き取っては乱れた髪を整えるのですよ。それから、さて、とばかりに実方に向き直り
「いかなる理由があってこのようなことをなさるのか、後学のためにしかと伺いたい」
 と冷静な口調で質すのです。これには実方もしらけてしまってそそくさと逃げるのです。
 ところが困ったことがありました。ことの一部始終を天皇が窓からご覧になっていたのです。そして行成は立派だった、と蔵人に召され、実方の方は中将の官を取り上げられて左遷させられてしまいます。
 左遷、といってもみやびな王朝のことですから
「陸奥の歌枕を見てきたらいいだろう、そなたは歌人なのだから」
 と、陸奥に遣わされることになったのです。ただ、その場ではご不興を買ってそういうことになりましたが、もともと才能ある実方を惜しまれて陸奥に行くときには殿上にて御酒など賜り、官位も一階進められてのこととなりました。その後、実方は都に帰ることなく、陸奥の地であい果てました。



 初恋の話というのはなぜこうも気恥ずかしいのでしょうね。こんな機会でもなければ話題にすることもありませんから、良い機会です。篠原の話を聞いてみましょう。
 丁度具合のいいことに原稿用紙を前にほうけているではありませんか。おや、猫がそばに寄りましたよ。今度は万年筆の先で猫をじゃらして遊び始めました。どうやらまるきり仕事が進まないご様子。
「初恋……」
 突然の問いにあっけにとられた顔をしています。それはそうでしょうね、いきなり「篠原さんの初恋っていつでしたか」などと訊いたのですから。
「奥手だったのでね、三十を過ぎてた、と思うが」
 気を取り直してこの歌の話からはじめて尋ね直しますと、ようやくそう答えてくれました。
 どうも言葉を濁しがちなのは照れているのでしょうかね。
「当たり前だ。だいたいお前が知らない話でもあるまい」
 おっと、怒られてしまいました。
 確かにその話は知っていますけれど、まさかそれが初恋だ、とは思いもしませんからね。控えめに言ってもずいぶん驚きましたよ。
「かく言うお前はいつだったのかね」
 さて困りました。別に正直に答えても良いのですけれど、ここは優位に立ちたいですから策を弄することにいたしましょう。
「恋、というものはいつも初恋ですよ、私にとってはね」
 このときの篠原のぬかった、と悔しげな顔をいまも思い出してほくそ笑みつつ、この文章を書いています。




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