百人一首いろいろ

水野琥珀



 さて、お約束通り前回の続きです。まず前回の復習をいたしましょうか。
 「天徳内裏歌合」での歌のご紹介をしたのでしたね。平兼盛の歌、忍ぶれど――を前回は話題にいたしました。歌合の最後の題、恋の歌において二つの歌が火花を散らし、左右に分かれて応援する人々の興奮は最高潮に達した、というあたりまでお話いたしました。
 そこで今回はそのもう一方の歌のご紹介です。早速に参りましょう。



 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
 人しれずこそ 思ひそめしか



 詠み人は壬生忠見。ずいぶん前「暁ばかり」の回でご紹介した壬生忠岑の子です。幼い時より歌の上手の誉れ高くありましたが、家は貧しく、官吏としても微官で生涯を過ごしました。天徳内裏歌合の前後に摂津権大目になっています。地方の下級官吏ですね。
 ですが、その歌才を大変天皇に愛された人でした。忠見はどうやら元々摂津の住人のようです。あるいは父に従っていたのかもしれません。ある時、延喜の帝がその歌名高きを知ってでしょうか、摂津から呼び寄せて蔵人に任命いたしました。蔵人というのは帝の様々な雑用が仕事ですが、何しろ帝の身辺近くに侍るのですから大変な名誉ある職です。忠見は喜び勇んで参上したのではないでしょうか。その翌日のこと、退出した忠見の元に和歌が届きます。なんと帝の御製でした。もちろん返歌を奉るのですが、きっとお気に召したのでしょう。その後何度かに渡って歌の交流が続いています。
 天徳歌合ではきっとその交流を知っていたであろう時の天皇によって勅命で参加を義務付けられています。時の天皇とは、村上帝、つまり延喜帝の皇子であった方でした。父君にその才を愛でられた忠見のことを村上帝は忘れていなかったのですね。
 そして勅命を持って任じられたこの大役を忠見は見事果たしたと言えるでしょう。



 恋をしているのだと、知られてしまった。あっという間に火がついたように広がってしまった噂。
 気がついたら私の恋は知れ渡ってしまっているじゃないか。
 おかしなものだ。
 まだ、人知れずひっそりとあの人を思いはじめたばかりだと、言うのに。



 どうでしょう。兼盛の歌、忍ぶれど――に対するにふさわしい歌ではありませんか。
 さあそこで前回の続きです。
 講師は左右の歌を読み上げました。方人、味方は応援する方の歌を唱和しています。酒の入った宴席は声を張り上げて歌う人々の熱気でむっとしていることでしょう。
 困ったのは判者です。左右どちらが優れていると、しかと見極めが出来ません。両者の優劣は伯仲しています。
 引き分けにしようかとも思いつつ困りきった判者はちらりと天皇のお顔をうかがいます。村上天皇も困られたことでしょうね。どちらが良い、と仰せにならずただひっそりと小声で忍ぶれど――と吟じ給うのです。
 得たりとばかりに判者は「天気あるいは右にあるか」と平兼盛の歌に軍配をあげました。
 村上帝のご存念は以下ばかりであったのか、は想像するよりありません。もしかしたら双方の歌をゆっくり吟じて考えるおつもりであったのかも、そんなことを考えてしまいます。
 とにもかくにもそれで勝敗は決まりました。兼盛の右方はどっと歓声を上げ、勝どきににも似た音楽を奏します。杯はめぐり、音楽に歌にと絶えることがありません。歓楽はこの夜に極まり君臣共に楽しみました。酔いもまわり、楽しみは尽きせずながら白々と夜があけたころ、ようやくに帝は入御され人々も家路をたどります。
 そのころ忠見はどうしていたのでしょうか。歌合に歌人は同席していません。兼盛は正装して陣の座――使用人の詰め所と言う所でしょうか――にいて勝敗の知らせを待っています。そして勝った、と聞くや喜びに飛び出して以下の勝敗も聞かずに舞い踊って退出した、と言います。
 一方、忠見もまた別の場所で知らせを待っていました。恋すてふ――の歌は彼の自信作です。よもや負ける、とは思ってもみません。そこに負けた、と知らせが来るのです。心中いかばかりであったでしょうか。
 忠見はその後、心痛激しく物も食べられずに痩せ細っていきます。兼盛がそれと知って見舞いに行きますが、歌合であなたの歌に負けた、ただそればかりが悔しい、やりきれない、負けるはずはなかった、とばかり。その後いくばくもなく死んでしまった、と「沙石集」にあります。
 ですが、どうも家集をみるとその後も生きているようです。亡くなった、と言うのは創作でしょうけれど、忠見がどれほど悔しい思いをしたのか、それを世の人々がどう思っていたのかを知ることが出来る逸話だと思います。



 皆さんはこの二首のどちらに軍配を上げるのでしょう。私は、さて困ってしまいました。今しがたまでは恋すてふ――が良いと思っていたのですよ。ですがもう一度、と忍ぶれど――を口ずさんでみればこちらもやはり良い歌です。そこで篠原です。訊ねてみましょう。
「どちら、か。そんなものを決めてどうする」
 にべもないとはこのことでしょうね。別にどうこうしようと言うのではないのですよ、ただどちらが好きか、と訊いているだけではないですか。
「どちらが、と訊くからおかしい」
 ならばなんと訊けばよろしいんでしょうね。どうやら機嫌の悪い所に質問を浴びせてしまったようです。間が悪かったのですね。
 むっつりとしたまま原稿用紙にペンを走らせていましたから忙しかったのでしょう。おやおや、そうこうしているうちに編集者が我が家にやってきたではありませんか。篠原はあまり余人が家に来るのを好みませんからこれは余程のことです。客人の顔をうかがえば、おやまぁ切羽詰った顔をしていること。どうやら締め切りぎりぎりだったのですね。篠原にしては珍しいことです。
 何時間かのち、引きつった顔の編集氏が挨拶もそこそこに走り去ったのを送り出し、居間に戻れば篠原はすっかり伸びています。そばに猫も同じ格好をして伸びています。なんと怠惰なことでしょう。
 まぁ一仕事済んだ後ですからね。小言は控えて茶でも淹れましょうか。
「琥珀。煮干」
 台所にいる私に篠原が居間から声をかけます。篠原は煮干を猫のために常備しているのです。私は出汁に煮干を使いませんからまったく猫だけのためなのですよ。
 煮干と茶を持って居間に戻れば寝転がったままいい加減に猫の腹を撫でています。猫も猫でおざなりに喉を鳴らして、まったく似たもの同士で笑ってしまいますよ。篠原は転がったままの横着な姿勢で茶をすするという器用な真似を。猫は猫で私の手の中の煮干を狙って飛び掛ってくるじゃありませんか。好き勝手をして、まったく呆れます、本当に。呆れたついでに煮干を篠原の体めがけて投げつけてみました。案の上、猫は私を放って篠原に飛び掛るじゃないですか。寝転がったままの篠原は茶と煮干と猫をもてあましてあたふたとしています。
「琥珀ッ」
 ついに悲鳴が上がりましたがさて、どうしましょうかね。とはいえ私は笑い転げていて、どうやらすぐには手が貸せそうにないのですよ。これは困りましたね。おやおやまた猫に飛び掛られていますね、ああ茶が零れて。ですが、まったく手が貸せないのです。残念ですね。
 そんなことをやっていたら当初の目的であった「どちらが好きか」をすっかり訊きそびれてしまいました。やはり手を貸さずにいて、正解だったようです。




モドル